創作落語集

2026年10月25日

 主にコミカルな、創作落語に使えそうなストーリーを意識した作品集です。現代を舞台にした、もしかしたら、どこかにあるかもしれないお話たちです。笑うことは居ながらにして行う持久走と言われ、とても健康に良いものだと言われております。これらをお読みになって、少しでも、くすりと笑っていただけたら。

  1. タラバガニ

  2. マッサージチェアの愛撫

  3. 比内地鶏

  4. タヌキとキツネ

  5. 和菓子屋の娘

  6. メインレース

  7. 掛け軸

タラバガニ

 薄暗く上質な明かりのもと、色とりどりの熱帯に住む魚がおよいでいた。目の覚めるようなブルーの魚、まぶしいイエローの魚、すらりとした品のいい小魚の群れ、見るもきらびやかだ。が、そこからさらに進んでいくと、やや地味になる。深海魚のコーナーだ。照明もいっそう落としてあり、巨大なダンゴムシに似たものや、砂のなかに半分埋もれたものなど、造形もややグロテスクな魚が多くなり、そのなかに混ざって、堅い殻に身をつつんだ大きなタラバガニがいた。

 お客さんがタラバガニを見た第一声は一様に、美味しそう、というものだった。それ以外のコメントを、言われたことがなかった、もっと、すらりとした脚がすてき、とか、つよそうな体格、とか言われても良さそうなものだったのに、美味しそう、それしか言ってもらえないことに、タラバガニはやや苛立っていた。そんなとき、一組のカップルが手をつなぎながらやってきた。おまえらも、美味しそう、いうんやろな。決まっとるで。わいを見た客は、美味しそう、以外いわへんのや。

 カップルのうち、男のほうはひょろりとしていて真面目そうな眼鏡をかけていた、女のほうは、形のいい頭をショートカットにした小柄な子だった。女の子と目が合った。彼女はいっしゅん、無口になった。それから、かみなりに打たれたようにインスピレーションが降りてきたらしく、男とつないでいた手をほどいてタラバガニのもとへ駈け寄り、水槽にがばりと両手をついた。なんや。わしがそんなに美味しそうやったんか。でも、食ったらあかんでえ。なんせわいは、この水族館の顔やからな。とって食ったらあかん。

 良次さん。彼女はまるで親しい男性を呼ぶように、タラバガニの名を呼んだ。なんやて。わいに名前をつけてくれるいうんか。嬉しいのう。だれもわしを名前では呼ばんかった。みんなわしを食べ物扱いする、やつらはな、食うことしか、利用することしか、考えてへんのや。嬉しいのう。嬢ちゃんはやつらとは少し違うようじゃ。嬢ちゃん、わいのこの、長くまっすぐな脚を見ていっておくんなせえ。タラバガニはポーズを決めた。彼女は本格的なカメラを構えて、たいして動いてもいないタラバガニを何枚も連写した。嬉しいのう。良次さん、良次さん、なんども、彼女は名を呼んだ。

 すると、彼のほうがやってきた。なんだ、なんで水槽に向かっておれを呼んでいるんだ? 彼女がいう、だって、良次さんそっくり! 良次さんって、エッチのときもどちらかというと淡白で、あっさり系でしょ。かといって、味がないというわけでもなくて、品のいいさっぱりした口あたりでしょ。ひょろひょろと長い手足といい、堅い殻におおわれたその性格といい、良次さんそのものじゃない! ああ、良次さん、こんなところにいたのね。彼は少し引き気味だ。おまえねー。ああ、良次さん、すてきよ、良次さんの写真を何枚もとっちゃった。良次さんたら、前脚をふりかざしてポーズまでとってくれて、最高の写真になってしまったわ。こんど、プリントアウトしてわたしの部屋の枕元にかざりましょう。きっと、良次さんが寝ても覚めても傍にいてくれるような、そんな心強さをくれることでしょうね。

 あかん。わいと、この男が、似とるって? どう見ても、わいのほうがええ男やないか。嬢ちゃん、趣味わるいでえ。そんな男やめてわいにせい。どうだ、この発色のええ赤みがかった甲羅、立派じゃろう? しかし、カップルはもう聞いてはいなかった。つぎの水槽へと、手をとってあるいていった。彼女はいう、こんど、カニクリームパスタをつくりましょう。得意なのよ、たまねぎのみじん切りをがっつりめに炒めてね、トマトピューレと、ホワイトソースを混ぜるの。ふふ、共食いね。ああ、最高に愉快。良次さんが共食いしているところを想像したら、なんだか楽しくなってきちゃった。さあ、こんどはウミガメとペンギンを見にいきましょう。それから、あっけにとられているタラバガニをふりかえった。じゃあね、また来るわね、良次さん。そして、水槽のほうへ手を振って、去っていった。

マッサージチェアの愛撫

 長旅だった。岩手県を一周した。内陸のほうをまわって、桜や、山吹のうつくしい姿をフレームに収め、それから、新緑に囲まれてすがすがしい空気を吸い、そしてついに海が見えてきたときには、ちょっとどきどきした。黒沢はいつもひとりでクルマを走らせていた。なぜかというと、助手席に乗せるべき女性がいなかったからだ。女なら誰でもいいというわけではない。それに、黒沢にはカメラという心強い相棒があった。

 展望台に着いた、ひとりで旅をしているらしい女性が、なにか物思いにふけるようすで海を見ていた。その感覚は淡い恋に似ていた。でも、じぶんのような腹の出た中年男性を、好きになるような女などいないということは、ちゃんと自覚していた。でも、いまは相手の心配だ。心地よさそうな表情をしているが、ひとりでいることといい、なにか変なことを考えているのではないだろうな。

 あの。黒沢はぶっきらぼうに話しかけた。彼女は、黒沢のいかつい顔をまじまじと見て、ふうん、といって、品定めするかのようなそんな眼差しを向けたあと、つん、となにも言わずにくるりと背を向けて去って行った。なんだあれ。不愉快だ。ひじょうに不愉快だ。こちらは、親切で声をかけたのに。ようするに、下心があると思われたんだな。それにしても、おれはそんなに恋愛対象としてゲテモノなのか。この年まで縁がなかったのも、じぶんの容貌と性格のせいだというのか。

 気をとりなおして、駐車場に戻りドライブをつづける。ここから南下すれば、宿は遠くない。ふう、運転しっぱなしでくたくただ。誰か運転を代わってくれるような、いっしょに旅行したいような友人がいればいいのに。でも、友人なら誰でもいいわけではない。そんなことを思いながら宿に着いた黒沢は、高台に移築されたその旅館のこざっぱりとした新しい木の良い香りがしそうな佇まいを目の当たりにしたとき、その新しく建て直された旅館があたかも復興の象徴であるかのような気がして、なんだかとても嬉しくなった。

 部屋に着いて、荷物を下ろすと、トイレと手洗い、うがいを済ませてひと息つき、さて、運転で疲れきった体をほぐすべく室内を見わたす、ベランダのところの一人用の露天風呂にでも入ろうか、いいや、まだ日は完全に暮れてはいないんだ、もう少しこの山並みと海とを眺めていたい気がする。ソファでテレビを見ているのはもったいないようなそんな感じ。うってつけだと思われたのが、ガラス越しに海のほうを眺めわたせる角度でしつらえられた、一脚のがっしりしたマッサージチェアだった。

 腰をおろすと、黒沢のガタイのいい体を、しっかりとホールドしてくれたマッサージチェア。なかなか、いいじゃないか。左手のところにリモコンがある。とりあえず、足でも揉んでみるか。

 ん、なんだか、肩のあたりも、揉まれている気がする。おかしいな。つぎには、腰のあたりまで、リモコンでなんの操作もしていないのに、揉まれはじめた。おいおい。なんだ、こわれているんじゃないか。黒沢は不気味になって立ちあがった。ういいい、としばらく揺れていた椅子は、黒沢がいなくなると、ぴた、とおさまった。なんだったんだ。

 この怪奇現象に対して、ひとりで立ち向かえというのか。そうだ、とりあえず、フロントに電話して来てもらおう。9番を押すとすぐにつながった、はい、フロントです、と礼儀正しい声がして、安心する。あの、マッサージチェアが、操作していないのにかってに動いて故障しているようなんだが。というと、少々お待ちください、そちらへ伺います。ホテルのスタッフさんが部屋にやってきた。お願いしますと扉をあける。入ってきたスタッフさんが、マッサージチェアをいろいろ動かしてみて丹念に調べたが、どこにも異常は見あたらない。一時的に、動作が不安定になったのかもしれませんね、ということだった。失礼します、とにこやかに去って行った。

 黒沢はマッサージチェアを見つめた。なんとなく、じぶんの意思でうごいているかのようだ。不気味な椅子だな。でも、こわれているとおもうと余計に、揉んで体のこりをほぐしたい気がしてくる。なにせ長旅だったからな。そして、気をとりなおしてもういちど掛けた。

 なにも起こらない。ひとり旅につきものの、ひとりきりの部屋の静寂がうるさい。誰かに、いてほしいような気もした。車を走らせて、途中にビューポイントを見つけたときは心踊る、そんなときは孤独なんてどこかへ行ってしまう、けれど、宿の部屋に着いて、やわらかくも残酷な静寂につつまれるとき、誰かにそばにいてほしいような、人肌が恋しいような、ふしぎな気がするのだ。

 つぎの瞬間、ういいい、と起動する音がして、黒沢の体は激しく揉まれはじめた。なんだなんだ、また勝手に動き出したぞ。やっぱり、故障しているんじゃないか、この椅子。なんとかしてくれよ! リモコンをあちこち押してみたが効果がない。そのうちあきらめた。なんだか気持ちがいい。うおお、気持ちいいぞ。激しく全身をバイブレートされながら、黒沢は叫んでいた。マッサージチェアの故障だと思っている黒沢は、マッサージチェアの熱をおびた囁きには気づかなかった。アイシテル。オカネナンテ、イラナイノ。アナタガ、ゼッチョウニナッテクレレバイイノ。

比内地鶏

 鶏たちが、話していました。もうすぐクリスマスだねえ、と一羽がいえば、なにかプレゼントをもらえるんでしょう、楽しみ、ともう一羽がいい、そうやって盛り上がったさいごに、さきほどから黙りこくっていた年かさの鶏がいいました、

 「おぬしら、何をそんなに喜んでいるのじゃ。プレゼントをもらえるのは人間だけだ。ごちそうをお腹いっぱい食べられるのは人間だけだ。知っているのか、わしらは、人間たちのごちそうにされるのだぞ、丸焼きにされて、大皿のうえで切り分けられるのだぞ。ふん、おめでたいやつはいいな、クリスマスに願いがひとつだけ叶う、と人間どもがいっているが、肉にされてしまう前にさいごに願いをひとつだけ叶えてやるという、ただそれだけのことなんじゃ、何も知らなかったのか、おぬしら」

 クリスマスがいよいよ近づいてきました。人間がやってきて、一列にならんでください、願いを叶えてあげますから、といいました。若鶏のシュヴァルは考えました。長老のいうことがほんとうなら、願いを叶えてもらったら、こんどは食われちまうんだ。そんなのまっぴらだ。ほかのやつらは、せめてさいごに腹いっぱい食べさせてもらって処刑台にいくみたいだが、おれはそんなのいやだ。シュヴァルの番がやってきました、

 「なあ、シュヴァル。クリスマスに、何かお願いごとはないかい?」

 シュヴァルは考えました、

 「旦那、頼みがあるんでさあ。さいごに、自由に、草っぱらのうえを駈けまわらせてくれませんか。狭い小屋のなかは退屈すぎますぜ。ひとつだけ願いを叶えてくださるんなら、どうか、外に出させてくだせえ」

 「いいとも」

 変わった願いごとだな、と思いましたが、人間は、シュヴァルを草っぱらに連れていきました。そこで、シュヴァルは思いっきり駈けだして、鶏というのは走るとけっこう速いのです、駈けに駈けて養鶏場をあとにしました。人間たちが気がついたときは、もう手遅れでした。

 「おおい、シュヴァル」

 「だめだな、逃げちまった。親方に叱られるぞ。まあ、一匹ぐらいならごまかせるか。どうかな、見つかるかな、給料へらされるかな。ちくしょう、おれたちだって、好きでこんな仕事してるんじゃないぞ。でもよ、おまえらを肉にしなかったらこっちは、上がったりなんだからよ」

 とうとう探すのをあきらめて、養鶏場のひとたちは引き上げていきました。もうじき日が暮れます。暗くなったら、蛇にだって狙われるでしょう。どこか安全な場所はないでしょうか。シュヴァルは、ひとつの民家にやってきました。そこには、旦那さんと、奥さんが住んでいました。こつ、こつ、と誰かが扉を叩く音がしました。旦那さんが、誰か来たぞ、といいました。奥さんが、近所のひとが来たのだろうと思い扉を開けると、そこにはシュヴァルがいました。シュヴァルが、くちばしでもって、ドアをノックしていたのです。シュヴァルはいいました、

 「奥さん、一晩、泊めてくれませんか。あっしは、行くところがないんです。明日になったら出ていきますから、暗闇のなかじゃ、蛇や猫におそわれちまいますんで、どうか、一晩ここに泊めてくれませんでしょうか」

 すると奥さんは旦那さんにいいました、

 「あんた、こいつは比内地鶏らしいわ。鶏肉のなかでも、最高級の鶏肉だってうわさよ」

 「ああ、違いない。おまえ、いいこと考えたぞ」

 旦那さんが親切をよそおって進み出て、手招きしながらシュヴァルにいいました、

 「お入りなさい。迷子の鶏さん。外はもう暗いよ。一日といわず、ずっとうちに居てくれていいんだ。なにせ、子どもたちは都会に出ちまって寂しくてたまらないんだから」

 「有難うございます。では、泊めていただきます。土間のところにお邪魔してもよろしいでしょうか」

 「土間じゃなくて、奥にいらっしゃい。いちばん奥の部屋がいい。さ、こっちだ。遠慮しないで。ごはんもたんとある。腹いっぱい食うといい。野菜もあるよ、小松菜を刻んでやろう、ほかに、欲しいものはないかい。じゃ、ゆっくりおやすみ」

 シュヴァルは奥の間で、畳のうえに、ぷりっと糞をしました。それから、閉められた障子越しに聞き耳をたてました、ひそひそと、旦那さんと奥さんが話していました、

 「あんた、やっちまうかい?」

 と奥さんがきくと、旦那さんは首を横にふりました、

 「いいや、あの鶏はまだ痩せている。太らせてから売ろう。食ってもいいが、売ったほうが金になる。いいか、毎朝、あの鶏に穀物と野菜と、それから砂を少しばかり、与えるんだ。たっぷりとな。おまえ、勘がいいぜ、あの鶏は比内地鶏に違いない。こいつは高く売れる。見たか、あの毛づや。健康そのものだ、ひきしまっていて、上品な味がするに違いない、高く売れるぞ。そうだ、シュヴァルのために、庭に鶏小屋を建ててやろう。居心地がいいからきっと育ちも良くなる」

 翌朝、大工さんが呼ばれて、あっというまに居心地の良さそうな鶏小屋が建ちました。両手で抱きかかえられそこに連れていかれて、餌を与えられましたが、シュヴァルは餌を残しました。

 「食べないねえ」

 奥さんがいいました、旦那さんも、

 「具合が悪いのかな。心配だから獣医さんを呼ぶか。待てよ、そんなことしたら、逆に金がかかっちまう。もう少し様子を見よう」

 「シュヴァルったら、きのう、畳に糞をしちまったよ。しょうのない子だねえ。ま、高く売れるんだから仕方ないね。でもさ、鶏ってのは可哀想だね。クリスマスになると、プレゼントをもらうどころか、肉にされて食われてしまうんだからね」

 つぎの朝も、シュヴァルは餌を残しました。ふたりは、鶏小屋のまえでひそひそ話していました、

 「あんた、この鶏、具合でも悪いんじゃないのかい。病気の鶏なんか食ったって旨くないよ。いっそ、逃がしてやるかい。どうする、あんた? 病気の鶏じゃ、売るに売れないじゃないか」

 「もうちょっと様子を見よう。もし、どうしても食べないようなら獣医を呼んで診てもらおう」

 「いっそ、食っちまうってのはどうだい? 太らせてから食おうと思ったけどさ、考えてみたら、エサ代だってかかるんだ。どっちが得かわからないよ」

 「まあ、もうちょっと待ってみよう」

 シュヴァルはつぎの日も、そのつぎの日も、餌をほんのちょっぴりしか食べませんでした。しだいに、旦那さんと奥さんは心配になってきました。鶏小屋のまえで、ふたりは大げんかをしていました。奥さんはいいました、

 「あんた、どうするんだい、この鶏、死んでしまうよ!」

 「だから獣医を呼べばよかったんだ。おまえが、金がかかるなんていうから、呼ばなかったんだ」

 「違うよ、あんたが金がかかるっていったんだよ。ああ、シュヴァル。いますぐ、獣医さんを呼んでやるからね。死なないでおくれ、ええと、獣医さんの電話番号はどこだろう、あった、あった。シュヴァル、待っててくれよ、お医者さんを呼んでやったからね、しっかりするんだよ。なんとか持ち直しておくれ、シュヴァル! 死ぬんじゃないよ!」

 電話を受け、鶏が死にそうだといわれて駆けつけた獣医さんは、あちこち診察してさいごに、こういいました、

 「健康そのものですな」

 奥さんが獣医さんにくってかかりました、

 「そんなはずありませんよ、餌を食べないんですよ。このままじゃ、死んでしまいます。なんとかしてやってくださいよ、先生! お願いです。先生、何とかいってください」

 獣医さんは診療道具をしまうと、それをじぶんの車に積みこみ、さいごに、立ち去りざま、眼鏡を直しながらいいました、

 「あんたがた、この鶏をどうするつもりですかな。わたしは、動物の命を助けるのが仕事、だから、申しあげますが、この鶏を食うつもりでしたら、これいじょうお世話できません」

 奥さんと旦那さんが、口をそろえていいました、

 「さいしょはたしかに食べようと思っていたんですが、なんだか、飼ってみたら可愛くなって」

 「そうなんです、シュヴァルはわたしたちのだいじな家族です」

 その言葉には真実がこもっていました。シュヴァルにも、それが感じられました。ふたりは獣医さんにすがりついて、何とかシュヴァルを助けてくれるよう頼みこみました。獣医さんはやれやれ、といってもういちど診療器具をとりだしました、

 「もういちど餌をやってごらんなさい。食べるところを観察してみましょう。それで、どこか悪いところがあれば手術をしてあげますから。いつものごはんをあげてみてください」

 手術! 冗談じゃねえや。お腹をすかせきっていたシュヴァルは、こつ、こつ、と地面をついばんですごい勢いで餌をたいらげました。それを見ていた奥さんと旦那さんは大喜びして、たがいにしっかりと抱き合いました。

 「食べたわ!」

 「ほんとうだ、なかなか、食べるところも愛嬌があるな。この毛づや、見たところもなかなか立派な鶏だ、金色と黒のコントラストも美麗だし、尾羽のそそりたっているのも見事だ。いやはや、獣医さん、有難うございます。この鶏は、一生のあいだ大切にしてやります。ほんとうに、お世話になりました」

 獣医さんは車に診療道具を積んで去っていきました。

 「良かった、失礼するよ」

 車を見送りながら、ふたりは、死にそうだったシュヴァルが助かったので大喜びでした。ふん、人間ってやつは勝手なもんだ。独りシュヴァルはつぶやきました、でも、まあ、住みかが見つかったからいいとするか。お礼に、毎朝モーニングコールをお届けするぜ。この声はりあげて、おまえらをたたきおこしてやるからな。いいか、ちゃんと起きて、おれに餌を届けるんだぞ。そうしなかったら、けづめで蹴りをくらわすぞ。

タヌキとキツネ

 夕暮れがせまり、閉園の時間でした。動物園から、人間のすがたになって出てきたタヌキとキツネは、勝負することにしました。どちらが可愛い女の子をナンパできるか、を競うことにしました。相手のすがたを見て、楽勝だね、と美青年にすがたを変えたキツネが言えば、なにを、とタヌキオヤジにすがたを変えたタヌキが言いました。ふたりは、動物園の門のまえで待ち合わせしました。

 すらりとして、さらりとなびく髪のキツネは、渋谷でおしゃれな女の子を物色しました。そして、ミニシアターから出てきた女の子に狙いを定めて、こう声をかけました。

 「いい映画だったね。いっしょに、映画の感想を話してもいいかな。そこのカフェでおごるよ。きみがとても可愛かったので、つい、声をかけてしまったよ」

 ええ、行きましょう、とおしゃれな女の子がいいました。そうして、ふたりはうつくしく日暮れの街にすがたを消しました。

 一方、かっぷくのいい、ちょっと生え際のあやしいタヌキオヤジにすがたを変えたタヌキは、日本橋で女の人を物色しました。そして、フルーツパーラーから出てきた女性にこう声をかけました、

 「どうです、お嬢さん。いっしょにフランス料理のフルコースでもいかがですか。お金のことは気にしないでください。葉っぱの、いえ、お金がたくさんありますから」

 いいわね、とマダムがいいました。そうして、ふたりはゴージャスに日暮れの街にすがたを消しました。

 さて、閉園前の門のまえで、キツネは可愛くておしゃれな女の子をつれていました。タヌキは、ゴージャスなマダムをつれていました。少し、年増でしたがものすごくお洒落な婦人で、得も言えぬ色気がありました。どう見ても、はすっぱな女の子よりもそのマダムのほうが上でした。楽勝、とおもっていたキツネはとてもくやしがりました、

 「なんだ、ちくしょう、いい女じゃねえか。なあ、奥さん。聞かせてくれよ、どうして、こんなハゲオヤジがいいんだい?」

 すると、マダムが、ふふ、とわらっていいました、

 「だって、このお方は大きなお財布をお持ちなんですもの。こよなく魅力的ですわ。美青年のあなた、男性の魅力を誤解しておいでのようね。男性の魅力というのはね、器の大きさとお財布の大きさなのよ、おわかりになりまして?」

 タヌキが勝ちほこったように言いました、

 「見たか、この超高級の極上のスーツ。ふん、キツネくん、きみは貧乏そうな女の子をつれているね。可愛いけれど、ちょっとそれは安手の服だよ。真の勝者はわたしだと認めるかね?」

 「く、くそう」

 キツネは、とてもくやしがりました。そして、キツネのすがたに戻りました。タヌキも、タヌキのすがたに戻りました。女性はふたりとも、魅力的な男性が小汚い動物に変わったので、あっけにとられて、ふたり顔を見合わせると、同時にくるりと背を向け、さっさと動物園の門の前から去っていきました。

 そこへ、動物園の飼育員の女の子がやってきました、つなぎを着ていましたが、メガネをかけていてちょっと目が垂れていて、ほんとうに動物が好きで、そしてまた世話好きな女の子でした、彼女は、タヌキとキツネがいないので探していたのです。やっと夜になって戻ってきたので、門のまえでしゃべくっているのを見て、こう注意しました、

 「ちょっと、ふたりとも、なにやってるの。すごく心配したんだから。そうやって、人間に化けてふらふら出歩いて。正体がバレて、猟友会の旦那に狙われても知らないからね。ちょっと、きいてる?」

 確かに、人間に化ければ、良い女は手に入ります。でも、こんなにじぶんたちのことを心配してくれる女の子がいるでしょうか。ふたりは思いました。この飼育員さんこそが特上の女の子だと。彼女はタヌキとキツネを両脇にかかえて、園内につれていくと、それぞれの檻のなかに放り込みました。二度とイタズラしないでよ、と。逆らえないなあ、ふたりは連れられていきました。

和菓子屋の娘

 ある街に、とても繁盛している和菓子屋がありました。その店がはやりだしたのは、ご主人のひとり娘の深雪が、年頃になって店番をするようになってからでした。あわただしい年の瀬、新年に美味しい和菓子をいただこうと、その店にはひっきりなしにお客が訪れていました。純一と純次も、和菓子を買いにいくところでした。

 「なあ、兄」

 と、純次がいえば純一が、こたえます。

 「なんだ、弟よ」

 「深雪ちゃん、金持ちのボンボンとつきあっているって、ほんまかな」

 「あの、洋酒が入っているやつか」

 「違うって。それは、ウィスキーボンボン。金持ちの坊ちゃんってことや。なーんか、面白くねえと思わない? おれたち、こうして、和菓子そんなに好きでもないのに、深雪ちゃんがいるから、こうして買いにきているんや。なのに、深雪ちゃんが結婚して店やめてしまったら、どうする」

 「たしかに、おもしろくねえな。このごろ、深雪ちゃん、幸せそうな顔でぼんやり店番しているんや。よっぽどイイ男なのか」

 「あほ、そうに決まっているだろ。じゃなかったら夢中にならないだろ」

 「ちぇっ、おもしおくねえな。なあ、こういうのはどうだ? ちょっと嫌がらせしてやらないか」

 ひそひそ、とふたりは話し合って、にやり、とうなずきあいました。そして、深雪はいつものようにぼんやりと、上の空でお客を待っていました。そこへ純一と純次がやってきました。

 「あら、いらっしゃい、純一さん、純次さん。早い時間でよかった。売り切れちゃいそうだったから。今年も上生菓子をお買い求め?」

 「どれでもいい、上生菓子いつつ」

 「こちらの、うぐいすをかたどったのがいいかしら。それとも、こちらの、椿をかたどったのがいいかしら。ねえ、どちらがいいかしら」

 「そんなん、どっちでもええ。早よたのむわ」

 うーん、深雪は迷いました。うぐいす二つと、椿三つにしよう。そして、箱に入れて包むと、五千円を受けとりました。レジの引き出しにお札を入れて、お釣りのお札とコインをわたしました。すると、純次がそれを数えていいました、

 「五百円、釣りが足りん。どういうこっちゃ。深雪ちゃん、ちゃんとせえへんと怒るで」

 にやり、と笑って、ふたりは顔を見あわせました。彼女がどんな顔をするか、ちょっと楽しみだったのです。泣いたところが見られたら最高だ、と思っていました。けれど、深雪はぼんやりと浮き立った表情のまま、にこやかにこういうばかりでした、

 「あっ、ごめんなさい。足りなかったですか。はい、足りなかったの、五百円でしたね。なんだかこのごろぼんやりしていて、ごめんなさい。ねえ、見てくださいよ、このコチョウラン。じつはね、彼が、そのどでかい見事な鉢植えをくれたんですが、置く場所がなくて困っているのよ。仕方なくそうやって店先に置いているの。ほんとうに、いいひとなんだけど、うちは金持ちじゃないから、置く場所がないのを察してくれてもよさそうなんだけど」

 贈り物のコチョウランを、店先に置いたって。ざまあみろ。ふたりは、やっと溜飲を下げました。なぜって、その彼は自室に飾ってほしくてコチョウランを贈ったのでしょう、それなのに店先に置かれてしまって、いい気味だ、と思いました。ふたりは、ひそひそ、ささやきあいました。どんな顔するやろな、せっかくの贈り物のコチョウランを、店先に置いてしもうたいうたら。ざまあみろや。純次がいいました、

 「釣り、これでいいみたいや。五百円、返すで。そんなことより、なあ、深雪ちゃん。結婚したら、店辞めてまうの?」

 すると、純一もいいました、

 「ほんま、店辞めてもうたら困るで。深雪ちゃん目当てのお客さん、多いやろ。この店がつぶれてもええんか。おれたちはもう、深雪ちゃんの顔、見られへんのか」

 因縁をつけられたというのにまったく気にする素振りもなく、いたってにこやかにいいました、

 「店は続けるわよ。彼がね、つづけてもいいって言ってくれてるの。ほんと良かった。ラッキー。嬉しいわあ、わたしも、お客さんと話すの、大好きだから。お得意さまに恵まれて、ほんとにこの上ないくらい幸せだなって思うの。あ、これ、二本だけサービスしますね。うちの定番商品の草団子。固くならないうちに食べてください。これからもご贔屓にね。ぜひ、またお越しくださいませ、それと、どうぞ風邪などひかないで良いお年をお迎えください」

 包みを下げながら後ろ手に引き戸を閉めた純次が、ため息をついて心配そうに言いました、

 「深雪ちゃん、幸せになるといいなあ。たしかに、ボンボンと結婚して贅沢はできるんやろうけど、でもなにせ、金持ちと結婚すると苦労が多いっていうだろ」

 「だいじょうぶだろ、あの子、ええ子やから」

 と、楽観的な純一でしたが、純次はこうつぶやきました、

 「ええ子やから心配なんやろ」

 それもそうやな。はあ、とため息をつく純一と純次でした。街は年の瀬で沢山のクルマがあわただしく行き過ぎていました。深雪はおそらく、彼氏とあたたかに新年を過ごすのでしょう。さて、おれたちはどうするかな。来年もええ年になるといいな。と、ふたりはつぶやきました。

メインレース

 ぼくの大学時代は暗かった、サークルにもひとつも入っていなかったし、かといって、授業に身がはいるでもなく、打ち込めるものなんてひとつもなかった。街も人も嫌いだった。人混みにいるとすぐに気分が悪くなったり疲れきってしまったりする。でも、競馬場の人混みだけは大丈夫だ。最近では、カップルや子どもづれもいるとはいえ、主に独りで来ているひとが多かったからだ。ぼくは、家族づれやカップルの妙に明るい感じが、どうにも耐えがたかったが競馬場では、何となくそんなぼくでも孤独をわけあえるような気がした。いつもパドックをかならず見る。というより、本来の競馬場の趣旨からは外れるが、ほんとうは馬を見るために来ていた。やさしい目、優美な首さし、すらりとしたガラスの脚、馬というのはなんてうつくしい動物なのだろうと、いつも驚かされる。すると、隣りにいたやや恰幅の良いおじさんがこう声をかけてきた、

 「あんちゃん、ずいぶん熱心に見ているな。買う馬がなかなか決まらないのか。おれがアドバイスしてやろうか」

 どう見てもガラが良さそうには見えないそのひとだったが、どこかに人情味を感じるので、面白そうだから少し話でもしてみようとおもい、こんなふうにこたえた、

 「見ているだけです。馬って、ほんとうに綺麗な生き物ですね。ぼくはただ馬たちを眺めていられたらいいんです。賭け事もそうですが、競争というかそういうの全般が苦手で。とくに就きたい仕事もないから就職活動にも身が入らなくて。かといって大学院に進学するほど勉強好きなわけでもありません。ほんと、どうしようもないですね。でも、こうして馬を見ているときだけはそういうの、忘れられるんです。もっと現実を見たほうがいいですかね。ところでおじさんは、買う馬、決まっているんですか」

 すると、おじさんが言った、

 「買わねえのか。おれが教えてやるよ。あの8番の馬、セブンオーシャンってゼッケンに馬名を書いてあるだろ。あの馬、調子が上がっているんだよ」

 ぼくはその馬を見てみた、たしかに、後脚の踏み込みもいいし、気分も落ち着いているようだ。栗毛の馬体は上半身が筋肉質で、牡馬だとわかる、馬体はそんなに大きくないが引き締まっている。そしてたぶんその逞しさからステイヤーとして申し分ないだろう。

 「確かに良い気配ですね。ただ、オッズを見るかぎり、勝つのはちょっと苦しそうかな、とも思いますが、どうでしょう」

 「馬鹿だな、オッズの低い馬を買ってどうするんだ。穴馬を狙ってこそ、儲かるんだよ。おっと、あんたは儲ける気はないんだっけな。だったらよ、応援馬券だと思って買ってみたらどうかい。あの馬、じつはちょっと前までコズミがひどくてよ、直るのにえらい苦労したそうだぜ。でも、おとといの調教の様子ではよく動いていたしよ」

 「えっ。調教までご覧になったんですか」

 「ま、まあな。とにかく、嫌なら買わなくていい。ただ、ちょいと綺麗な馬だろう?」

 ええ、ほんとうに。というと、おじさんは離れていった。セブンオーシャンか。コズミがひどかったってほんとうかな。ぼくが人生を歩くようなそんな歩様だったのかな。いまは綺麗な歩き方をしているけれど。やがて騎手が駈けてきて騎乗し、馬たちは地下馬道へと消えていって、まもなくターフにすがたを現すだろう。パドックには誰もいなくなった。これも何かの縁だ、馬券でも買うか。と、ぼくはシャレのつもりでほんの千円札を何枚か、馬券に換えてみた。そして8番、セブンオーシャン、と書かれた単勝馬券をにぎりしめ、ゴール前の柵のところに行くと、さっきのおじさんがやっぱりゴール前で馬たちを待っていた。ぼくが、隣りに立って、馬券、買いました、というと、そりゃあ良かった、といって温かな笑みを向けた。このおじさん厩務員かな。いや待てよ、厩務員なら馬のそばに付き添っているはずだもんな。

 ゲートインを終え、旗が上がり、ファンファーレが鳴らされる。そして沈黙のあと馬の進路をさえぎっていたゲートがいっせいに開かれると、各馬いっせいに駈けはじめる。セブンオーシャンは少し出遅れた。まだ大丈夫、距離は長いんだ、じっくりと上がっていけばいい。外を回って六番手ぐらいにつけ、第二コーナーを曲がり、第三コーナー、そして最終コーナー。外を回っているぶん不利だろうか。逃げ馬がまだ粘っている。各馬に追うための鞭が入る。残り三ハロン、セブンオーシャンがじわじわと上がってきた。観客席が熱を帯びてくる、おじさんが野太い声で馬の名を呼ぶ、

 「オーシャン、来い!」

 ぼくは声を出すのが少し恥ずかしくて、ただ馬券をにぎりしめながらただ馬がひたすら無事にゴールしてくれればいい、そんな気持ちでこちらに駈けてくる栗毛の馬体を待った。ダイナミックな走りで加速するセブンオーシャン。逃げ馬は完全に他馬につかまっている。残り二ハロン。やった。前の馬をかわした! さらに良い脚で伸びてくる。外を回っているから、さえぎるものは何もない。近づいてくる、こちらへ。栗色の輝くような毛並みに汗をたぎらせて。迫ってくる。ついに先頭に立った。残り一ハロン。そのまま! こころのなかで叫ぶ。心配をよそに、危なげなく上がってくるセブンオーシャン。馬たちの群れがいま蹄のかたちをしたゴールをくぐった。蹄の音が軽やかにターフを染めていく。セブンオーシャンは明らかに一馬身差をつけていて、その勝利は疑いようがなかった。応援馬券のつもりで買ったのに。あ、お礼とかどうすればいいんだ。このひとまさかコーチ屋だろうか。あれ、おじさんは勝ったはずなのに馬券を換金しに行かない。ふしぎだ、ぼくにおしえておいて自分は馬券を買わなかったのだろうか。

 「すごい。ほんとうに勝つとは思いませんでした。あ、すみません、なんだか馬に失礼なことを言ってしまって。おじさんは、馬券をお金に換えにいかないんですか。もしかして、お礼が必要だったとか。ぼく、数千円分しか買っていないので、あまり満足な金額がお渡しできるかわからないんですが、どうしましょう」

 それには構わず、どこか貫禄のあるそのひとは、感極まった表情をしてずっとゴール前で、ターフの騎手が鞍上で良くやったと馬の首すじを愛撫するのを見やっていた。やっぱりプロのコーチ屋だったんだろうか。背筋が寒くなった。が、やがてぼくに向かって言った、

 「わたしは馬主でね。どうも、あのガラス張りの貴賓席は好きになれないんだ、こうやってゴール前で馬が駈けてくるのを見ていてやりたくてね。学生さんよ、あの馬だってハンデを克服して勝ったんだ、あんただってやれるさ。スタートがちょっと出遅れただけさ。ほんとうに良くやってくれた。競りでは、誰もがコズミのある馬を買うなんて、と言いおったが、わたしはぜったいやってくれると思っておったよ。いつかこの日が来るのだとな。おまえさんも頑張るがいい。いつか、真っ先にゴールにとびこんでくるそのときを、待っておるよ」

掛け軸

 黒いハイヤーで老舗の温泉旅館に乗りつけたのは、山高帽の紳士と薄紫のワンピースの奥さんでした。荷物を仲居さんに持たせて背筋を伸ばして、山高帽の紳士は革靴をぬいでそのままにしておきました、奥さんはぬいだサンダルを几帳面にそろえました。その夫婦は旅館ではすでに顔でしたから、すぐに四階の貴賓室に通されました。すでに、荷物は部屋のなかに入れてありました。部屋のなかは快適な温度で急須には茶葉が入っていました。何も申し分ないはずなのに、心づけは貰えませんでした。不満をおさえながら、見てらっしゃい、と、平静をよそおって仲居さんが訊ねました、お茶菓子をお持ちしてよろしいですか、と。

 「あなた、どうする?」

 と、奥さんが旦那さんの顔を見ました、甘いものが欲しそうな顔をしていましたから、持ってきてもらおうか、と思いましたが、紳士はというと、冷房を弱めにした車内で汗だくになっていましたから、上着を脱ぎながら仲居さんにこういいました、

 「悪いが、すぐに風呂に入りたいのでね。あ、でも、家内は欲しいかもしれないから、持ってきてくれ。わたしのぶんは置いておいてくれれば良い、下がってくれ」

 やっぱり、チップはありませんでした。が、見てらっしゃい、という内心のつぶやきとともに仲居さんは下がっていきました。旦那さんはその貴賓室の部屋づきの温泉にまず入りたい気分だったので、脱衣カゴに必要なものを入れるとベルトを外して、服を脱ぎ、手ぬぐいひとつで引き戸を開けて湯の湧く音に身を任せました。ちょうどいい湯加減でヒノキの浴槽は気持ちよく、これは何度でも入りたい気持ちよさだ、後でもういちど家内と入るか、と思いました。まったく家内が、冷房のきついのが苦手だから、汗だくになってしまった。ほんとに、気立てはいいんだがちょっと困った女だ。と、思いながらも、ふたりきりの旅行でわがままな時間を過ごせてとても満足していました。ふう、そろそろあがるか。引き戸を開けて脱衣所に出て、浴衣に袖を通し、さっぱりすると、喉が渇いたなと思いました。奥さんは、部屋の冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲んでいました。

 「あなた、さっぱりしました? お茶菓子は、やっぱりあなたと頂きたくて、後から持ってきてもらうことにいたしました。あら、どうしました。わたしどこかおかしな格好でもしていますか」

 その長い人差し指でさしていたのは奥さんの背後の掛け軸でした。

 「こ、これは何だ?」

 奥さんは振り返りました。自由律の俳句と絵が描かれていました。が、少々、おかしいことに奥さんは気づきました。有名な尾崎放哉の句ね。あら。そこには達筆な字で、咳をしても一人、の代わりに、屁をこいても一人、と書かれていました。その左下にやはり毛筆で描かれていのは、よく見ると抽象画ではなくて、おしりの丸みとその隙間から放たれる屁のようすでした。掛け軸を代えていただきましょう、奥さんは冷静にそういいました。ふざけとる、そう叫ぶと、旦那さんは、真っ赤になってレセプションの番号を押しました。絶句する旦那さんに、涼しげな声で仲居さんが応対しました、酒井さま、そろそろお茶菓子をお持ちしてもよろしいでしょうか。その事もなげな様子がさらに怒りをかきたてました、

 「ふざけるな、部屋の、こ、これは何だ?」

 旦那さんはあまりのことに、いつもの雄弁さを失っていました。やっと、これだけいったのでした、

 「お部屋に問題があるのでしょうか。どのような問題がご説明いただいてもよろしいでしょうか、え、見ればわかるのですか? では、すぐに参りますので。え? 女将をお呼びになりたいのですね、たいへん失礼いたしました、本来ならば、みずからお出迎えにあがらなければならないところを、少々、席を外しておりましてわたくしが代わりに応対いたしました。無礼をお詫び申し上げます。女将がすぐにご挨拶に伺わせていただきます」

 やれやれ、やっと気がついたわね。女将は仲居さんと目配せし、エレベーターに乗りました。宿の女性たちは、心づけの少ないこの客を良く思っていなかったのでした。それに、奥さんは感じがいいんだけど、何となくあのお客は嫌味な感じなのよね。そう思いながら、貴賓室の扉をノックしました。

 「女将が参りました。酒井さま。ご挨拶させていただいてよろしいでしょうか。入らせていただきます」

 そこには、例の掛け軸がありました。

 「こ、これは何だね? ふざけているのか。わたしを、このわたしを、馬鹿にしようというのかね。どういうつもりか、すぐさま説明してもらいたいものだ。こんなものをわたしが泊まる部屋に掛けおって、無礼が過ぎるとは思わないのかね」

 女将は畳に両手をついて謝る代わりに、ほほ、と笑いました。涼しげな様子で流れるように言葉をならべました、

 「これは、とても格の高い掛け軸でして、素人の方には良さがおわかりにはならないかもしれませんが、かの有名な尾崎放哉の句の秀逸な本歌取りでございます。抽象画ふうの絵も独特の味を出していると思われますが、なにか、問題でもございましたか。それとも、酒井さまのご趣向には少々合わなかったのでございましょうか」

 もう、旦那さんは怒りのあまり我を忘れてしまって、持っていた高価なトンボ柄の扇子を女将に向かって投げつけると、掛け軸をびり、びり、と破いてしまいました。

 「馬鹿にしおって!」

 女将は、きっ、として紳士に向き直りました。

 「これは、ひじょうに格の高い掛け軸。値段にすれば、三億円は下らない品物です。ああ、どういたしましょう。破かれておしまいになって。酒井さまはお得意さまでいらっしゃいますからとてもご請求など、するわけにはいかないのですが、さりとて、これと同じ品を求めようと思うとやはり三億円は下りません。まことに心苦しいのですが、カード払いで構いませんのでご請求することをお許し願えないでしょうか」

 クレジットカードで、少しだけ、そう、一万円ぐらいチップを貰うことにしましょう、と、女将さんは思って、いつも金持ちのくせに払いの渋いその客から、金を奪うことをもくろんだのでした。クレジットカードは差し出されませんでした。代わりにハンドバッグに手を伸ばしたのは、奥さんでした、

 「小切手でよろしいわね?」

 は? 奥さんが、持っていた紙切れに、300,000,000円、と書いてわたしました。釣りは、けっこうです、と、にっこりと笑いました。

 「いつも、快適な滞在を有難うございます、女将さん、わざわざ掛け軸ひとつのことでお呼び立てしてしまって、すみませんでした。小切手と、それと、これは掛け軸のお代とは別の、お礼の気持ちです」

 と、女将が紙切れと懐紙の包みを受け取り、後から確かめると、紙切れはどう見ても小切手ではなくてただの紙切れで、懐紙の包みにはきっちり一万円入っていました。なるほどね、やるじゃない。女将はお客のほうが一枚上手だったことに気づきました。それから、安堵のため息をつきました。ほんとうはひやひやしたの。酒井さまに無礼をはたらくなんて。でも、仲居さんたちのうっぷんがすごくたまっていたのよ、ああするしかなかった。冗談のわかる奥さまで良かった。この温泉宿がお取りつぶしにならなくて、ああ、ほんとうに良かった。

幻想庭園Since2026.6.23