童話集

2026年10月07日

 孤独とひとり立ちをテーマに、書き下ろしも加えた童話集です。誰かの思うままになりたくなかったら、否が応でも、じぶんでじぶんのことをこなさなければなりません。ときに孤独と向き合うことも必要になるでしょう。それは楽しいことばかりではないのかもしれませんが、そうすることで得られるものはきっと沢山あるはずですから。

  1. 独りぼっちの亀

  2. 田舎の停留所

  3. 王子の馬

  4. 鬼のはなし

  5. ひこばえ

  6. おひなさま

  7. 青い翡翠の勾玉

  8. りんご

  9. カモマイル

  10. 郵便配達のはなし

  11. 白馬から生まれた子馬

  12. 本が好きな子

  13. 発表会のドレス

    独りぼっちの亀

       遠い海の向こうガラパゴスに、ゾウガメという、とても大きい亀が住んでいました。象のように大きくてがっしりしていることから、そんなふうに呼ばれていました。ガラパゴスのその島には、もう、ほかのゾウガメはいなくなってしまって、亀はたったいっぴきで暮らしていました。人間たちが、ときおりお嫁さんの亀をほかの島からつれてきて紹介するのでしたが、亀はどのメスも気に入りませんでした。のっしのっしと歩いては、ときおり立ちどまって、首をぐっと伸ばしてサボテンの実を食べました。なぜ、ぼくは独りなんだろう、と、亀は思わずにいられませんでした。
       トカゲにも、蝶にも、パートナーがいて、蝶はつがいの蝶とあんなに楽しそうに舞いあそんでいるのに、もつれあって螺旋を描きながら空の高みへと舞い上がっていくあの蝶たちに比べて、ぼくはこんなにも地面にしばりつけられていて、そして、こんなにも独りきりだ。だれか、そばにいてくれたら。でも、ぼくはいやだ、人間のつれてくる、ぼくという存在にぜんぜん興味のないメスたちは、やっぱりいやだ。どこかに、ぼくがぼくであることで愛してくれる、こころの優しいメスのゾウガメはいないんだろうか。そう、そんなゾウガメがいたら、ぼくはその子をパートナーと呼ぼう。
       大地の女神は、叶わない願いを持ちつづけるゾウガメのことを、とても可哀想におもっていました。それでこうおもいました、あの子のほかの望みは何でも叶えてやることにしよう、と。亀はサボテンの実を食べながら、陽ざしを浴びていたのですが、ちょっと陽ざしがきつすぎるかなあとおもいました。ここに、木陰があって安らかに昼寝することができたら、どんなにいいだろうなあ、とおもいました。女神は、それをきいていました。地面が何だかざわざわしています。ゾウガメが、なんだろう、とおもっていると、双葉がいきなり芽を出して、芽は見るまに大きくなっていって、枝を張っていき、そしてそれは巨木へとなって涼しい木陰をゾウガメに投げかけていました。陽ざしがちらちら、ちょうどいい具合に木漏れ日となって地上にふりそそいでいました。大地の女神はいいました、
       「さあ、あなたの望みを叶えてあげましたよ。ですから、もうパートナーのことは忘れてくれますね?」
       すると、あんなに心地良さそうにしていた亀は、とたんにむっつりとした表情になってふさぎこんでしまいました。大地の女神は、こんなこと言うのではなかった、とおもいました。亀は、パートナーの夢をみようとおもって、太い手のあいだに立派な頭をのせて眠りにつこうとしました。さわさわ、風に枝が心地良く鳴っています。ですが、サボテンの実をちょっと食べすぎてしまったようでした。ちょっとのどが渇いてきました。そして、ここに水が湧きでていたらいいのにな、とおもいました。大地の女神はじぶんの出番が来た、とおもいました。ぼこぼこ、と音がしたかとおもうと、ざあっとくぼみに水があふれて、あっというまに清らかな泉へとなりました。亀はどんなに喜んだでしょう、まず、がぶがぶと水をのんで、それから、いっぽいっぽ、のっし、のっし、とあるいていって、体ごと水につかって水浴びをしました。その気持ちいいことといったら! すっかり亀がごきげんになったので、女神も気を良くして言いました、
       「水浴びは、気持ちいいでしょう?」
       「ええ、とっても」
       亀がこたえました。女神はためらいながら、こうたずねてみました、
       「あなたの望みは何でも叶えてあげますから、ですから、もうパートナーのことは忘れてくれないかしら」
       すると、亀は無言のまま、力なく重そうに手足をひきずって、むっつりと泉からあがってきて体を木陰に横たえました。女神は途方にくれました。それで、海にいるお姉さんの精霊にたのんで、贈り物をつくってもらいました。白い貝殻でできた首飾りです。それを、風にのせてふんわりと首にかけてあげました。亀は首になにか巻きついたので、泉の水にじぶんのすがたを映してみました、すると、白いきれいな貝殻がつらなった、とてもうつくしい首飾りをまとっていたのです。けれどつぎの瞬間、ゾウガメは大地の女神の言おうとする言葉がわかったので、言いました、
       「ぼくが欲しいのはこんなものじゃない。なんだ、こんな首飾り。ぼくは温もりが欲しいんだ。ぼくの存在を受け入れてくれる誰かが欲しいんだ。そんなに勝手なことを言っている、ぼく? トカゲにも、蝶にも、パートナーがいるじゃないか。ぼくにだってパートナーが欲しいんだ」
       ゾウガメは泣くのをこらえました。大地の精霊はおもいました、もし、できることなら、じぶんがパートナーになってあげるのに、と。でも、精霊には手も足もありませんでしたし、触れることも温めてあげることもできません。
       「ねえ、わたしは力のある女神だけれど、あなたに対しては、大した力を持たないかのようだわ。あなたの望みは何でも叶えてあげることができるけれど、あなたのお嫁さんをつくることはできないのよ。この島をはなれてべつの島へいけば、メスの亀もいるから、そのなかにパートナーになりえる亀もいるかもしれない、でも、そこにはまた、危険がいっぱいなの。あなたをつれていくことはできないわ。わたしには、あなたが大切なの。この島を離れてほしくないのよ。お願いだから、パートナーのことは忘れてくれない?」
       やはり亀はだまったままでした。
       「ごめんなさい、もう言わないわ。ほかに、欲しいものはないかしら。何でも叶えてあげたいの。どんな贅沢でもさせてあげたいの。ねえ、その白い貝殻、なかなか手に入らないのよ。気に入ってくれたかしら」
       大地の女神は、亀のパートナーの悩みよりも、じぶんの贈り物が気に入ったかどうか、そればかり気になっていました。でもそれは、何とかしてゾウガメを喜ばせたいとおもったからでした。それがわかったのでゾウガメは、もういちど、じぶんのすがたを水鏡に映してみました。亀のおだやかな瞳に、丸みをおびた形の貝殻が、とてもみごとに映えていました。きれいだな、と思いました。まるで大地の女神の思いがそこに詰まっているかのようでした。それが望みでないことはわかっていましたが、亀はしずかにこう言いました、
       「きれいだね。サイズもぴったりだ。ありがとう、わがままいってごめんね、ぼく、この首飾りをきっと大切にするよ。きっとだよ」

    田舎の停留所

       まばらな家々のあいだの、坂道をおりて、少女が停留所へとやってきました。バスが来るまでには、まだ、ずいぶん間があります。でも、少女はあずまやにこしかけようともせず、秋山郷と停留所名の書かれた時刻表のところに、ただ立って、空を見上げていました。早春の空はちょっとおぼろげで、それを切りとる山々は、まだ雪におおわれていました、が、森の木々の枝にはまだ若葉が萌えていません。
       終点まで行ったら、どこへ行くんだろう、美月は、ふっと考えました。美月が早く家を出てきたのは、お父さんとお母さんが、けんかをしていたからでした。お母さんがどなってお父さんがつくえをたたく、何度それはくりかえされたことでしょう。理由はたったひとつでした。陶芸家のお父さんが、この村に引っ越してくることを決めたのですが、お母さんは、楽しみの見いだせないこの村がいやなのでした。でも、美月はまったくお母さんのようには考えず、むしろ、お父さんのような陶芸家になりたいと思っていました。ある日、仕事場をたずねていって、そのことをろくろに向かっていたお父さんに言ったのですが、「女には、無理だ」と、とりあってくれず、その後、無言でろくろを回しつづけ、取りつくしまもありませんでした。そんなことがあってから、ちょっとだけお父さんが嫌いになりました。けれど、お母さんに懐くのかというと、お洒落ばかり気にして、ろくに構ってくれないお母さんのことも好きになれなかったのでした。
       何もかもが嫌になってきました。どういうわけか、美月だけ、学校でたったのひとりも、友だちができず、みんなが楽しくしゃべっている横で、ひとりで本をひらくのが常でした。それはかなりの慰めとなっていたのですが、引っ越すまえの図書室とくらべて、こんどの学校は、ほんとうに本が少ないのでした。それは悲しいことでした。本だけが友だちだったのに。いつしか、美月は村の停留所で、しゃがんで顔をおおって泣いていました。いいのです、誰も見ているわけではないのですから。誰も気にかけるわけではないのですから。
       そのとき、クラクションが鳴りました。もう、バスの来る時刻だとは思いませんでしたから、びっくりして大きな音をきいて目をあげると、運転手さんが前扉を開け放ってこちらに叫んでいました、いつもの、ちょっとぶっきらぼうで優しいひとでした。
       「美月ちゃん、乗らないの! 置いて行っちゃうよ。気分でも悪いのかい? でも、ちょっと具合が悪くても、がんばって学校へ行ったほうがいいよ。そっち、行こうか?」
       いつもの運転手さんがそう言ってくれたので、立ち上がると、あわてて、ステップを踏んでバスに乗り込みました。そして、首に下げていた定期券を見せながら、すみませんでした、おねがいします、と言いました。それで、いちばん前の席に乗りました。まだ、だれも乗っていないみたいだったので、何か話せたらなあと思ったのでした。バスは、山々のあいだを、右に折れ、左に折れ、確かな曲線を描いて走っていきました。美月は、何か話したかったのですが、小さい美月には、何を話していいかわかりませんでした。つぎの停留所にさしかかったとき、運転手さんが言いました、
       「あのな、きついこと言うようだけど、負けちゃだめだよ。まわりの、そとがわの人の考え方に、負けちゃだめだよ」
       それっきり、運転手さんは口をつぐみました。はい、と、美月は言いましたが、そのときはよくわかりませんでした。けれど、やがて成長した美月は、工芸美大にすすみ、焼き物の絵付師になるべく修行をつづけ、そんななかで折にふれ、そういえばあのとき、あの運転手さんがくじけそうになったわたしに励ましてくれたっけ、と、あたたかく思い出すのでした。

王子の馬

         今日はとくべつな日でした。幼かった王子が、すらりとした少年に成長し十二回目の誕生日を迎えた日なのでした。
         国王と王子が洗い場にやってきたので、働いていた者たちはいっせいにお辞儀をしました。国王は威厳をたたえたまま通りすぎ、王子は馬に鞍をつけたり蹄の手入れをしたりしている厩務員たちに、こんにちは、お疲れさまでございます、と、声をかけながら通りすぎました。国王の命令で、その厩舎のなかでいちばん良い馬が、王子のもとへ、つれてこられました。馬を歩かせてその歩様を見せたのち、洗い場につなぎ、馬体をよく見せて、どうかね、と目利きの国王は王子を試すようにいいました。生き物が大好きな王子は夢中になって、そのうつくしい歩様と馬体に見とれました。しなやかな脚のはこびかた、おだやかそうな気性、いささか線のほそい優美な馬体、そのすべてが、繊細でいて、それでいて神経質すぎない気性を物語っていました。国王はその王子のようすに満足げでした、
         「どうかね、少し華奢かな。牝馬だからな。ひょっとして牡馬のほうがよかっただろうか、でも、はじめて乗るのに牡馬では気性が荒かろうとおもってな。それとも、ほかの馬がいいならいいなさい、厩舎を見てまわるといい、どの馬でも、好きな馬をおまえにやろう」
         でも、王子はその馬がとっても好きになってしまったので、ほかの馬などとは夢にもおもいませんでした、ひじょうに馬に満足していること、その馬をくださった国王に心から感謝していることを、ていねいで心のこもった言葉でもってつたえました、
         「お父さま。このうえない誕生日の贈り物です。こんなに、すばらしい馬をありがとうございます。ぼく、きっとこの馬をたいせつにします。馬という生き物は、ほんとうにうつくしいですね。なんて優しそうな瞳なんでしょう、それに、毛並みがまるで刈り入れどきを迎えた小麦畑のように輝いて。ああ、何という名前にしましょう。お父さまも考えてください!」
         じぶんの選んだ贈り物が愛しい王子の気に入ったので、国王はこころから満足したようでした、
         「良かった、気に入ってくれて。最高の馬を選んだつもりだったからな。おまえは馬を見る目がある。さぞかし馬術も上達するだろう。だがな、それだけじゃいけない、これを機に、武芸にも励むのだぞ。おまえは、将来、わたしに代わって、良い国王にならなければいけない。良い国王になるためには、やさしいだけじゃだめだ、つよくなくてはいけない。ときには下の者に対して力で言うことをきかせなければいけないこともあるのだ。おまえは、やさしすぎるところがあるから、わたしは心配だった。でも、馬にこんなに興味をもつようなら安心だ。ほんとうに良かった、良かった」
         けれど、ただ見とれるばかりで、乗ってみたい、となかなか言い出さないので国王はいぶかしみました。さあ、乗ってみなさい、と国王が言いだすまえに、上気しながら王子がいいました、
         「りんごをあげてもいいですか。馬はりんごが大好物だとおそわりました。高価な果物なんですよね、でも、ぼく、この馬にどうしてもりんごをあげたいんです。だめでしょうか」
         今日は王子の誕生日なのだから王子の好きなようにさせてやろう、と、国王は、りんごを持ってこさせました。王子は、りんごを馬にさしだし、そうして、りんごを食べる馬のようすをほんとうに微笑ましげに見つめていました。それから、王子は、馬の横にたって、やさしく首すじを撫でてあげました。名を呼んでやさしく声をかけると、ぶるる、と鼻を鳴らして快適な心地を伝えました。国王は、そんな王子の幸せをいつまでも守ってやりたいとおもいましたが、あえてこう言いました、
         「あまり、馬をかわいがりすぎないようにしなさい。馬は、言うことをきかせるもの。おまえのほうが上の立場だと、馬にもおしえなければいけないのだから。それに、馬は戦場につれていくもの。おまえは将来、軍を率いて、馬に乗って戦わなければならないのだから」
         王子はすこしかなしげな目をしましたが、国王にさからう気はなかったのでこう返事しました、
         「はい、お父さま。わかりました」
         王子は、もういちど馬の顔を見つめました。そのやさしげな面差しは、戦いを望んでいるようにはどうしても見えませんでした。王子は、できることなら戦場になどつれていきたくないと、おもいました。もし、できることなら、どこか、陽のあたる草地で、しずかに草を食むままにさせてやりたいとおもいました。どこか、戦争も争いもない世界で、馬といっしょにしずかに暮らしたいとおもいました。でも、王子には義務がありました。国を守って戦うという義務が。もしかしたら不可能なことかもしれないけれど、いつか、いつか争いのなくなる日が来たら、そのときには、鞍をつけられることも頭絡をかけられることもなく、生まれたままのうつくしいすがたで、どこまでもつづく野原を駈けまわらせてあげたいと、王子はつよく願ったのでした。

鬼のはなし

       むかし、鬼がいました。こわいわるい鬼でした。鬼は、村でわるさをするのにも飽きて、嫁さんをもらおうとおもいました。それで、村人たちにむかって、誰でもいいからひとり、娘をよこすようにといいました。
       「やい」
       鬼は村人に向かってがなりました。村人がきびすを返して逃げようすると、その襟首をとっつかまえて、こう言い捨てていきました。
       「おれは嫁をもらうことにした。誰でもいいからひとり娘をよこせ。よこさなかったら、ひどい目に遭わせるからな。いいか、明日の夕刻に村のはずれに来る。そのときまでに、誰でもいいからひとり娘をえらんでおけ。言うことをきかねえとタダじゃすまねえぞ!」
       村人は村長のところへいって、それを伝えると、難儀な話になったと村長は頭をかかえました。さっそく話し合いがひらかれました。
       「鬼のところへなんか、おらたちの娘をやれるものか。ことわっちまったらどうだい、村長さんよ。だってあんまりだ。鬼の嫁なんてよ。そうだろう、誰だってたいせつな娘を、鬼なんかにやれるかよ」
       しかし村長はいいました、
       「断るのは、いくら何でもまずい。鬼のやつが、なにをしでかすかわからない。そこで、わしは考えたのだが、どうだ。聞いてくれないか、鬼にはうつくしい娘もみにくい娘もわからないだろうから、じつは、うちの末の娘でな、出来のわるい娘がひとりいる。畑をたがやさせようとしても道ばたの花に見とれるばかりで、糸つむぎをさせようとしてもぼんやりしてばかり、万事がそんな調子で、それでいて器量もわるいときている、ほんとうにどうしようもない娘なんじゃ」
       「ひょっとして、お菊のことですか」
       「そうじゃ。嫁に出そうにも、いくら持参金をつんでももらい手がないときている。あのどうしようもない痴れ者を厄介ばらいできれば、そいつはめっけものというものだ」
       それがいい。口々に村人たちは村長に言いました。そして翌日、陽も傾きかけた刻限に、村長はお菊の手をひいて村はずれにつれていきました。いくら出来のわるい娘とはいえ、やはりじぶんの娘でしたから、すこしかわいそうになりましたが、お菊にいいました、
       「おまえは鬼のところへいくんだよ、愚かでどうしようもなかったおまえが、やっと役に立つときがきたんだよ。さあ、ここで待っておいで」
       「鬼のところ?」
       村はずれに来ると、村長はつないでいた手をほどいて、お菊を村はずれに置き去りにしました。お菊ははじめ、おとう、おかあ、と泣きじゃくっていたのですが、しだいに泣きやんで、あたりを見わたしました。ススキの穂が、西日を浴びてうつくしく揺れていました。お菊は、世界のうつくしさに見とれました。そして飽きずに、野原のまんなかにしゃがんで、空がくれないに染まって日が落ちていくのに見とれていました。
       やがて、陽がすっかり沈むまぎわ、空が暗くなりゆくそのとき、ずしん、ずしん、と大きな足音がきこえてきました。お菊は、あれが鬼にちがいない、とおもいました。鬼は、とげのついた金棒を背負っていました。
       「迎えに来た」
       と、鬼はいって、ぶっきらぼうにお菊に手をさしだしました。なるべく、怖がらせないように、そうっと。おそろしげな顔が見えないよう夕暮れをえらんで、鬼はやってきました。お菊はその小さな手で、大きく無骨な鬼の手につかまって、森のおくへとつれられていきました。歩いてゆくうちに、あたりは、すっかり暗くなりましたが、鬼の足どりはたしかでした。鬼は、森を知りつくしていたのです。なので、お菊も安心して鬼の手につかまってゆきました。やがて、洞窟へとやってきました。
       「おれが怖くないのか。ふしぎな娘だ。さあ、ここがおれの隠れ家だ。すまんな、こんなところにつれてきて」
       鬼は、洞窟のなかで火をおこしました。お菊は、鬼といっしょに火にあたりました。肌寒かったので、ぬくもりが心地いいとおもいました。明かりのもとで見ると、鬼は、ほとんど半裸で、どこか虚ろなすさんだ表情をしていました。ほかのものが見たら、なんとおそろしげだと思ったことでしょう。が、こころの目でものを見るお菊は、そのおそろしげな風貌の奥に、鬼の抱えているどうしようもないさびしさを見ました。それで、いっしょに火にあたりながらいいました、
       「あんたのこと、怖くねえ。あんた、やさしいひとだ。こんな、みんなに馬鹿だっていわれるおらを、もらってくれて。あんた、なんとなくさびしそうだ。おら、あんたのことだいじにするよ」
       夜は、ふけていきました。やさしい夜でした。それから、ふたりはいっしょに暮らしました。鬼は、森のさまざまなことをお菊におしえました。ものおぼえのわるいお菊は、なかなかうまくいきませんでしたが、何度もがんばってうまくいくと、ぽん、と頭を撫でてもらい、ふだんほめられることのほとんどなかったお菊は、たいそう嬉しく思いました。鬼のほうでもいっしょうけんめいなお菊が好きになって、親身になっていろいろ生きていくのにひつようなことをおしえました。ときには、お菊があんまり覚えがわるいものだから怒鳴ることもありましたが、そんなとき、怒鳴ってわるかった、と鬼がいえば、お菊は、ううんといって全身で鬼になついていきました。いっしょうけんめい鬼に尽くそうとがんばっているうち、日々はやさしく過ぎていって、いつしかお菊は、一人前のおとなの女になっていました。さいしょは、村でいちばん器量がわるく村でいちばん愚かだと呼ばれていたはずのお菊は、鬼のもとで成長をとげたそのとき、村にはかなうものがいないほどの、とびきりうつくしくて、とびきり賢い、そして誰ひとり持ちえなかった優しい心根をもつ女性になっていました。

    ひこばえ

       いにしえの街道沿いの町、かなりの由緒のある寺。その寺はふたつの道にはさまれて、中洲のようになっていて、そこにお堂が建っていました。道路の片側にはりだすようにして、ご神木が立っていました。彩りがなくてはご神木が寂しかろうと、寺の住職が萩の花を植えました。
       その年に、ご神木が切られることが決まりました。理由は、道路にはりだしていて、車が通るじゃまだからというのと、年を経ていていつ倒れてもおかしくないからというので。萩の花をさいごに一度だけ見せてやれた、でも可哀想に、大地に根をはって生きているのに、こんなに逞しく生きているのに、なんともったいないことだろう。住職は思いました。
       人足たちが木を切りにやってきました。せめて最後まで見とどけようと、住職はそのひとたちに声をかけました、ここで、この木の最期に立ち会っていいかね、と。人足たちはいいました、なにも好きで切るんじゃねえんだ、わるく思わないでくれよ、お坊さま。おれたちだって、こんな健気に生きている木を切りたくないさ。でも、道路のじゃまになるから木が切られるなんて、それこそ、よくある話さ。やがて、すごい音が鳴りひびき、のこぎりで木が切られました。木は、切れこみを入れてあった側に、どうと倒れました。
       萩の花は一部始終を見ていました。けれど、どうすることもできませんでした。やがて萩の花は散っては咲き、咲いては散って、そのうちに立派な茂みとなったのですが、ご神木のことを思い出してしまうので、お坊さまはずっと萩の花を眺めようとはしませんでした。ある年に、ふっとやさしい気持ちになって、今夜は十五夜だ、萩の花はどうしたろうと愛でました。そしてそのとき、切り倒されたご神木の切り株の根元から、芽がのびでているのに気づきました。そして泣きました。萩の花もどんなに喜んだでしょう、ふたたびご神木が、つよい風や雨からじぶんを守ってくれたあの木が、いままさにこうして芽吹こうとしているのだと。

    おひなさま

       はあ。杏子は、ため息をつきました。今日は、桃の節句です。杏子の家の、応接間には、おばあちゃんがプレゼントしてくれた、ひな人形が、朱い布をひろげた七段のうえに、豪華なひな人形たちが飾られていました。おひなさまの顔は、きりりとしていて美しかったのですが、杏子はこう思わずにはいられませんでした。ひな祭りって、女の子がはやくお嫁にいけるためだっていうけれど、こんなことにお金をかけるぐらいなら、もっと有意義なことに使ってほしかったなあ、うち、そんなに裕福じゃないんだから。すると、おひなさまのつぶやきが聞こえてきました。
       いちばん上に飾ってもらえるのは嬉しいんだけど、となりにいるのが、こんなになよなよしたひとじゃなくて、もっと素敵な殿方だったら良かったのに。となりのお内裏さまは、一段下の三人官女に色目を使ってばかり、いっそのこと、さっさと飛び降りてそっちに行けばいいのに。ああ、ほんとうに嫌でたまらないこと、誰かといっしょに並ばなければならないならせめて、あの二段下にいる逞しい五人囃子のひとりだったらいいのに。そう、とくに、鼓を持ったひとがいいわ、あのひととだったらいつまでも、桃の節句がおわっても、とこしえにそばにいてもよろしいのに。聞き耳をたてていたお内裏さまがたまりかねて、こう言うのが聞こえてきました、
       「なにを、ぶつぶついっておるのじゃ。わしだって、好きでおまえとおるのではない、三人官女はもっとたおやかで美しい、わしは我慢していっしょに並んでやっているのじゃから、少しは感謝してもらいたいものじゃ」
       我慢なんか、しなくていいのに。はあ。おひなさまが、ため息をつきました。なんじゃ、その顔は! すると、おひなさまがこういうのが聞こえました。この家に来るお客さまはみんな口を揃えて、わたしたちがお似合いだというけれど、こっちとしてはたまったものじゃないわ。あのお内裏さまといっしょにされて、どれだけ迷惑していることか。だいたい、ひな祭りっていうのは、おひなさまが主役なわけでしょう、お内裏さまは添え物なんだから、そんなにでかい顔をしないで欲しいんですのよね。
       「あなた、もう少し、離れてくださらないこと。ここは手ぜまですから、一段、お降りになったらおよろしいのに。ああ、はやく、このひな祭りが終わってくれないかしら。こんなひとと並ぶぐらいなら、飾られないほうがずっと良かった」
       なにをっ。もう、お内裏さまは耐えかねて、やにわに立ち上がると、手に持っていた芍で、ぺちん、ぺちん、とおひなさまを打ちはじめました。恥を知らぬか。この生意気な女め。お高くとまりやがって。何様だと思っているんだ、わしは、おまえなんか、大嫌いじゃ。手ぜまだというなら、そこから飛びおりたらどうなんじゃ。下に落ちて、粉々に砕けてしまうがいいわ。ふん、この恥知らずが。なぜ、ひな祭りはおまえが主人公なのじゃ。ふん、おもしろくないわ。ほんっとうに、おもしろくない! そうして、また、芍をふりあげましたので、杏子は見かねて、その手にお内裏さまをばしっとつかんで、いちばん上の段からとりのけました。そうだ! 替えてしまえばいいんだ。
       「なにをする、放せ、放さぬか。わしは、お内裏さまだぞ。いちばん、このなかで偉いのだぞ」
       杏子は、いいました、
       「暴力反対。今日は桃の節句、おひなさまが主役よ。文句があるなら、飾り主のわたしに言いなさい。ほんとうになよなよした顔。おひなさまのいうとおりね」
       そして杏子は、空いたほうの手で五人囃子の鼓を持った男をとると、さっと、お内裏さまと位置をとりかえて、若々しい鼓をたたく凛々しいすがたが段のいちばん上にやってくるようにしました。お内裏さまは悔しそうに、五人囃子のほかの者に囲まれて、あんた誰だ、とうさんくさい目で見られていました。うん、今日は桃の節句よ、良い祝日になったわね。と、杏子が満足したのもつかのま、お母さんがやってきて、なにをしているの、あら、ダメじゃない、お内裏さまをそんなところに飾ったら。といって、元に戻してしまいました。ごめんね、おひなさま。
       いいのよ、杏子ちゃん。ほんのつかのまでも、憧れのあのひとと、五人囃子といっしょに並ぶことができて、とっても幸せな桃の節句でしたことよ。お祝いはもうおしまいだけれど、あなたの人生はこれからよ。あなたは、すてきな男の人を見つけてちょうだい。人生は、お祭りじゃないの、つらいことだって、たくさん待っているのよ。でも、願うことをやめなければ、あなたがわたしを助けてくれたように、誰かがあなたを助けてくれるかもしれない、そんな気がしてならない。がんばってね。だって、今日は、女の子のすこやかな成長をお祝いする日なのだもの。

    青い翡翠の勾玉

       むかし、夫を亡くした女性がいました。都のはずれ、竹やぶのあいだにひっそりと、ひとつの館にすんでいました。そこをひとりの殿方が訪れました、満月の夜のことでした、殿方は、彼女を月の宵と呼んでいつくしみ、一夜の契りを結んだあと、また来る、といって去っていきました。きっと、きっとよ、殿方の去りゆく背中に、月の宵は呼びかけました。
       けれど、その殿方がもういちどやって来ることはありませんでした。月の宵はふさぎこみ、あるとき、庭で見慣れない少年を腹立ちまぎれに呼びとめました。
       「おまえ。見かけぬ顔だな、何という」
       少年はひざまずいて、
       「習作と申します。このあいだ入ってまいりました、牛飼いで、牛車の御者をつとめております。月の宵さま、さしでがましいと思いますが、どこかへお出かけになられてはいかがです、気分が変わりますよ」
       「ふん、そんな気分ではないわ」
       浮かんでくるのは、あの方の面影と肌ざわりばかりでした。夜、月の宵はねむれませんでした。殿方の贈り物である、めずらしい青い翡翠の勾玉をつけて、身支度をし、夜中だというのに習作に牛車を出させ、川の向こうの大社へと向かいました。習作は、殿方を待ち焦がれる月の宵の気持ちを察して、それを紛らわすために、あれやこれやと言葉をかけます。
       「ほら、月が綺麗ですよ。月の宵さまのようです」
       けれど月の宵のこころには届きませんでした。古びた社に、ろうそくが灯っていました。月の宵はその火をもらって、じぶんの手に持っていたろうそくを灯して、それを捧げて祈りました。あのひとが戻ってくるようにと。戻ってこないなら、いっそ、死んでしまうがいい、とさえ。
       それから毎晩、月の宵は牛車を出させて大社へと向かい、社へろうそくを灯すのでした。祈ることはいつも一緒でした。行き帰りに、牛車をたしかな手で御しながら習作は、何やかやと月の宵に話しかけました、そのうちあの方もおいでになることでしょう、きっと政務がお忙しくていらっしゃるのですよ。きっと、ただそれだけです。こんど、昼間にお出かけになってはいかがですか、桜がもうじき咲きます、隠れ里の桜の大樹を知っておりますから、ご案内できることと思いますよ。約束ですよ、いっしょに参りましょうね。
       館の桜のつぼみがふくらんできました。でも、月の宵はとても出かける気分ではありませんでした。いくら、習作がさそっても、首をたてにふりませんでした。毎晩、社へ向かって、ろうそくを灯しつづけるのみでした。その夜は月に照らされて夜桜が満開でした。
       「いつもと、道が違うのではないか。習作」
       いえ、いつもと同じですよ。着いたのは、桜が満開の隠れ里でした。大樹が枝いっぱいに花をつつみこみそれは、とても幻想的でした。そのときはじめて、月の宵には習作のやさしいこころが伝わってきました。月の宵は、その幻想的な眺めにわれ知らず素直な心持ちになって、いいました、どうしてこんなに、親切にしてくれるのです、習作?
       習作は、にっこりとほほえんでいいました、どう、綺麗な眺めでしょう? この場所でわたしは育ったんですよ。貧しい土地ですが、なかなかうつくしいでしょう? と。
       「なぜだ、なぜ、おまえだけは、わたしに親切にしてくれる? なぜ、おまえにだけは、こんなにこころを揺さぶられる? おそらく、あの方はもう来ないだろう。あの方は、わたしのことを忘れたのだ、わたしにはわかる。いままでも、うすうすわかっていた。あの方には、わたしが重荷だったのだ。わたしは、あの方が来ないならいっそ死んでしまえとさえ思った。でも、いまは、たとえ捨てられたのだとしても、それで良いとおもう。習作、おまえがいてくれたから」
       月の宵さま、習作はやさしく言いました、
       「わたくしにできることは、限られております。ですが、わたくしのせいいっぱいの力で、月の宵さまを、すてきな場所にお連れしますよ。こんどは、秋の十五夜に、虫の声をききながら月を愛でませんか。お約束してくださいますか、きっといらしてくださると」
       幾夜もねむれぬ夜をすごした月の宵は、習作の腕のなかで、白いひかりに照らされた大樹のこずえを見上げながらねむりに落ちていきました。習作はそっと月の宵をかかえ、牛車に乗せると、ゆっくりと牛をあゆませました。月の宵はねむりのなかで習作の名をかすかに呼びました。だいじょうぶですよ、わたくしはここにいますよ、習作がいいました。


    りんご

       カメは、ひとりぼっちでした。だれも、守ってくれるひともいなければ、こころを開けるひともいませんでした。人間は、たがいに友だちや家族をもって、大切にしあうものだと聞いていました。だから、人間と出会うと、こんどこそ家族や友だちみたいになれるかな、と思うのですが、どこにいっても、蹴られ、からかわれ、いじめられました。
       もう、人間をあてにするのはよそう、カメは森のおくでどこか、暮らしやすい場所をさがしたいとおもいました。おなかがすいていました、のどがかわいていました、でも、どこにも、食べ物も飲み物もありませんでした。歩いて、歩いて、歩きつかれて、やすもうとおもいました。向こうのほうに、美味しそうな木の実がありました。真っ赤にうれたりんごでした。そちらのほうへ歩いていきました、ひとつぐらい落ちていないかとおもって。木のしたをさがしましたが、りんごは、だれかが持っていってしまったあとのようでした。
       つかれきって、カメはりんごの木のしたでうずくまっていました。もしかしたら、だれかが来て、りんごをとろうとして、じぶんに気がついて邪魔者あつかいしようとするかもしれない、ともおもいましたが、動くにはあまりにつかれきっていました。誰かあるいてくる、大股にあるいてくる、荒っぽい足音ではないけれど、どんなひとか、わからない。逃げようか。だいじょうぶ、ぼくには甲羅がある。蹴られたってそんなに痛いわけじゃないんだ、ただ、かなしいだけ。うずくまって、その男のひとが近づいてくるのをやりすごそうとしました。そのひとは近づいてカメに気づきました。すると、やはりりんごの木のもとで、おそらく吟遊詩人でしょう、かかえていたリュートを地面におろしてひとやすみしました。こんなふうに話しかけながら。
       「カメさん、すこし、おじゃまするよ」
       そうして、やさしい時がながれました、吟遊詩人を、カメはつぶらな瞳でみつめました。吟遊詩人は、曲をきかせてあげようとおもって、地面においたリュートをとりあげました。つまびき、日だまりのような曲を奏でました。それは、とてもきれいな曲だったのですが、やはりおなかがすいて、りんごのなっているこずえのほうを見上げました。すると、そのひとは、
       「おや、カメさん。きみは、りんごが食べたいんだね。ぼくも食べたいから、いっしょに食べよう。とってあげるよ。ごめんね、おなかがすいているのに気づかなくて」
       といって、いちばん高いところから、いちばん美味しそうなりんごをとって草のうえに置いてくれました。それをひとくちかじると、みずみずしくて甘い味がいっぱいにひろがりました。待って。これは、このひとがあとから食べようとおもって、とったものではないの? 食べてしまって、おこられる! 甲羅に手足をすぼめようとすると、そのひとは言いました、きみのために、とったんだよ。ひとつで足りるかな、足りなかったら、もうひとつ、とってあげるから、おなかいっぱい食べてね。
       「ねえ、あなたは旅人なの? どこかへ、いってしまうの?」
       「ぼくはね、恋人のもとへ帰るさいちゅうなんだ。北の国でぼくを待っているんだ。水車小屋の娘でね、とてもきれいな緑色のひとみをしているんだ。どんなお姫さまよりも、きれいなんだ」
       そうか。みんなどこかへ、帰っていくんだな。ぼくには帰るところがないけれど、このひとには待っている相手がいるんだな。そうおもうと、すこしさびしかったですが、去っていく旅人をしずかに見送りました。ゆっくり、一歩ずつ、そのひとはゆったりした足どりで遠ざかっていきました。カメは、ずっと見ていました。少しずつ、道の向こうへとリュートを背にした吟遊詩人のすがたが小さくなっていくのを。やがて、すがたがとても小さくなって消えてしまうまで、ずっとそうやって見ていました。

    カモマイル

       王様は怒りにふるえました。たしかに、娘のリルーン王女は、いきなりでびっくりしたのでしょう。ひそかにマナス公爵をいいなずけと定めていたことは知るよしもなかったことでしょう。けれど、まさか、じぶんの命令にさからって、いいなずけを断ろうとは思ってもいなかったのです。マナス公爵は、拒絶の言葉をきいて、生意気なリルーン王女を殺してしまいたいと思いました。けれど、その場に居合わせたアステール子爵は、リルーン王女の決断はもっともだと思いました。マナス子爵は、ていねいな態度と裏腹に、ことあるごとに幼少の頃から陰湿な嫌がらせをするような人物だったからです。そのようなことをまったく知らない王様は、こう高らかに命じました、
       「兵士たちよ、すぐさま、命令にさからったリルーン王女を、北の塔にとじこめろ。マナス公爵との結婚を受け入れるまでは、けっして、外に一歩も出してはならぬぞ!」
       王妃さまは、何とか、とりなそうとしましたが、無駄でした。マナス子爵はそれは悪がしこく王様に取り入っていたからでした。リルーン王女はじぶんに迫る兵士をにらみました。そのひとりが、どうか、手向かいしないでください、と、懇願したので、マナス子爵と結婚させられるよりはと、塔へ導かれていきました。アステール子爵はおのれの無力さを呪いながら、その場をはなれ思索にふけりました。国王を暗殺するか、軍を起こして国をくつがえすか。
       ご用があればお呼びください、といって、兵士は扉にカギをかけました。調度品は、少しずつ兵士が届けてくれました。けれど、マナス公爵の命令で、本を読んだりすることは、かたく禁じられていました。悔しい思いをいっぱいに抱えたまま、塔のたったひとつの窓から外を見るとかつてあれほど愛した庭園がありました。あそこを歩けたらどんなに良いでしょう。いまのわたしにはそれさえ叶わない。絶望しかけたそのとき、庭のかたすみに、こちらを見上げている人影が見えました。アステール子爵でした。王女がじぶんに気づいたことを悟ると、庭の茂みにすがたを消しました。それはほんの一瞬でしたが、誰かが塔に閉じ込められている、じぶんのことを気にかけていてくれるのかもしれないと思うと、少しだけなぐさめられました。庭には、白い可憐なカモマイルの花たちがそよいでいました。
       アステール子爵は、留学時に親しくして居た隣国の王子に、一通の手紙を書きました。援軍を要請する手紙でした。それから、リルーン王女が変な気を起こすといけないな、と思い、ひそかに塔の見張りを担当している兵士のところへ行きました。三枚の金貨をわたして、これをつかってリルーン王女をお慰めしろ、と命じました。
       兵士ドリアンは、さて、どうしたものか、と思いました。吟遊詩人でも呼んであげようかな。リルーン王女は、いつだって、どのような身分のものにも親切でしたから、何かしてあげたいとは思いましたが、やっぱり、あまり表ざたになって、じぶんが味方したと知れると、国王やマナス公爵の怒りを買いかねないなと心配になりました。この金貨は申し訳ないけれど、とっておくことにしよう、それで、見張りの交代の時間までの空き時間に、庭をあるいていると、白い可憐なカモマイルの花たちがそよいでいるのが目に入りました。そうだ、これなら。月明かりのなかで、摘みとって、その足で、塔のてっぺんの王女の部屋へと向かいました。
       「誰ですか。あら。ドリアン。あなたでしたか。また、何か、楽しいお話をもってきてくれたのですか、違うの? え、これは、カモマイルの花束! わたしの大好きな庭に咲いているカモマイル! 嬉しい。どうして、これが好きだってわかったの?」
       アステール子爵のことを言わないように、気をつけながら、慎重に言葉をえらぶことにしました。
       「これは、わたくしからの贈り物ではありません。とある方からの贈り物です。その方の伝言をお伝えいたします、父王さまのことは、かならずやじぶんが説得するから、それまで、どうか待っていて欲しい、かならずあの庭をもう一度あるかせてあげるよう計らうから、絶望しないでほしい、と。心細くなったときには、あなたのことを見守っているものたちのことを思い起こしてください。カモマイルの花言葉は、逆境に打ち克つちからというんですよ。あなたにもこの花の助けがありますように。覚えておいてください、あなたはひとりじゃないんだということを」
       失礼します。と言って、兵士は扉の向こうに消えました。リルーン王女は、水の入ったコップにそれを活けました。夜明けでした。小鳥たちが、うつくしい声でうたっていました。夜がどんなに長くても、明けない夜はないのだと思いました。

    郵便配達のはなし

       丘のうえの一軒家、見上げると、いつも彼女が立っていました。こちらを向いて、焦がれるような目をして。郵便配達の彼は、いつも彼女に会釈をして通りすぎました。すると、彼女は焦がれるような目に優しいかがやきをたたえて、きまって会釈をかえしました。彼はおもいました、彼女はじぶんのことをどう思っているのだろう、と。そうして、今日も、用事もないのにまわり道をして、郵便ポストのところに立っている彼女のところへ行くのでした。
       彼はおもいました、今日こそ、この思いをつたえよう、と。なんと言ったらいいのでしょう。安月給の彼がほんとうに、彼女をしあわせにすることができるでしょうか。けれど、彼女をおもう気持ちだけは、それこそ、誰にもまけないつもりでした。彼女だって、ぼくを見るときあんなやさしそうな瞳をするではないか。けれど、彼女は誰かを待っているかのようだ。そんなある日、一通の郵便物が託されました。宛先は彼女、差出人のところには、知らない男の名が書いてありました。いいや、家族かも、きょうだいかもしれない。とにかく、届けなければ。
       丘を上がっていくと、彼女が目をかがやかせました。そして、さしだされた一通の手紙を見るなり喜びをほとばしらせました。彼には、その手紙こそが彼女の待っていたものなのだとわかりました。そう、彼女が待っていたのは、郵便配達の彼のことではなく、どこかの男からの手紙だったのです。
       彼はもう、丘のうえの一軒家にはいくまい、とおもいました。けれど、どうしても思いをおしとどめることができませんでした。うねうねとした坂を上がっていくと、彼女が、はじらいながら一通の手紙をさしだしました。宛名は、彼ではありませんでした。見知らぬ、あの手紙の男でした。彼は凍てつく瞳でそれを受けとり、よろしくお願いします、とお辞儀する彼女に背を向けて、一軒家をはなれて丘を下っていくと、小川がながれていました。そこにかけられた橋のたもとにやってきて、欄干にひじをつきました。こんな仕事をさぼっているところを所長が見たらきっと、かんかんになるでしょう。けれど、もっと所長を怒らせたくなりました。彼は、受けとった手紙をこっそりと破いて、破片を川に流しました。
       彼女はまいにち挨拶してくれます。でも、彼はもう、こころが踊らないのでした。じぶんが悪いことをしてしまったことがわかっていましたから。彼女はとうとう、彼にこうたずねました。
       「郵便配達のおかた、わたくし宛てのお手紙はございませんか。ずっと待っているのですが、ぜんぜん返事がこないのです」
       それで彼は、手紙を破いてしまったことを話しました。彼女の瞳が、悲しみに見ひらかれました。彼はさけびました、
       「だって、ぼくはあなたをずっと見てきたのに、あなたはぼくのことを見てくれない。あなたはまいにち、ぼくに挨拶してくれたけれど、待っていたのはぼくじゃなかったんだ、あの男からの手紙だったんだ、ひどいじゃないか、こんなの。ぼくは、あなたが」
       彼女は、はらはらとなみだを流しました。
       「そんな。手紙を破いてしまった、だなんて。それ、ほんとうですか。わたしの、たいせつな、たいせつな手紙を」
       それで、彼は、ほんとうに悪いことをしてしまったとおもいました。ごめんなさい、と言いたかったのですが、ことばが出てきませんでした。なんとか、泣いている彼女をなぐさめたいとおもいました。でも、なんと言ったらいいのかわかりませんでした。いちど書いた手紙が二度と書けないことは、彼にもわかっていました。とりかえしのつかないことをしてしまった、と彼はおもいました。
       そのとき、向こうから、大柄な男がやってきました。その男は、だんだん、だんだん、近づいてきました。ひげづらの無骨なその男を目にするなり、彼女の目が、よろこびに見ひらかれました。彼女は、その男の腕のなかにとびこみました。それで、彼には、その男が彼女の待っていたひとなのだとわかりました。彼は、半分はしあわせで、半分はふしあわせでした。彼女のしあわせを誰よりも願っていたはずなのに、なぜこんなにもこころが痛むのでしょう。じぶんの、彼女をおもう気持ちは誰にもまけないとおもっていたのに、その気持ちはほんとうのものではなかったのでしょうか。彼女は、彼が手紙をとどけてくれたのだとおもって、その男の腕のなかをはなれて、彼にお礼を言いました。彼は、言いました、
       「ぼくを、ゆるしてくれますか。あなたの手紙を破いてしまったのです。あなたの幸せを望んでいたはずなのに、いま、ぼくのこころは、ふさぎこんでいるのです」
       「ああ、親切な郵便配達のおかた。あなたのこころを傷つけていたのですね、わたくしは。ごめんなさい。ぜんぜん気がつかなくて。どうぞ、お詫びに紅茶を入れますから、主人の帰ってきたお祝いをかねて、どうぞあなたもご招待させてください。とびきりの紅茶をいれますわ」
       いいえ、ぼくは、もう行きます。背を向けて去っていこうとすると、彼女が呼びとめました、
       「郵便配達のおかた、まいにち挨拶してくださって、ありがとう。もしできたら、わたくしと友だちになってくださいませんか」
       いまは、返事ができません。ごめんなさい。いまは、まだ。でも、きっと明日、お返事しますから。郵便配達の彼は、去っていきました。半分はしあわせで、半分はふしあわせなまま。

    白馬から生まれた子馬

       良い天気です、馬たちは、放牧に出されました。子馬は、草のうえを駈けまわり、それから、しずかに草を食むお母さんのところへ戻ってきました。それはしずかな光景でした。陽はおだやかに、新緑と萌え出ずる草とにふりそそぎ、馬たちは思い思いに草を食んでいました。観光客がいました。男の人と女の人がいました。お母さんの白馬と、茶色い子馬とを見て女の人がいいました、
       「あれ、お母さんは白いのに、子馬は茶色なんだね」
       子馬はなんとなくお母さんと違っていることはわかっていましたが、じぶんの毛の色がお母さんと違うことには気づきませんでした。男の人がいいました、
       「ほんとだ。白馬の子は、白馬じゃないんだね。きっと、牧場のひとは、白馬が生まれてくると思ったんだろうね。きっと、お父さんが茶色い馬だったんだね。生まれてきた子馬がお母さんと違って茶色だったときは、きっと、牧場のひとたちはすごくがっかりしただろうね」
       じぶんが生まれてきたときに、周りのひとがあまり喜ばなかったわけをやっとわかって、子馬はとても悲しくなりました。あれだけ晴れていた空が、きゅうにくもってきて、ぽつ、ぽつ、と雨粒が降ってきました。牧場のひとたちが、ばらばらと走ってきて馬たちを連れにきました。子馬は、ねえ、ぼくが生まれてがっかりしたの? とききたかったのですが、いそがしく綱をつけて引いていくだけでした。子馬はお母さんといっしょに、いちばんはじっこの馬房にいました、お母さんにはとても、生まれてきてがっかりした? とは、きけませんでした。ただ、屋根をうちつける雨の音を聞いていました。うん、そうだよね。お母さんが白い馬だから、ぼくも白い馬なんじゃないかって、みんな思うよね。ぼくは、期待されたようには生まれてこなかったんだ。
       いよいよ雨は本格的な降りになってきました。だれも訪ねてこなくなったので、落ち込んでいた子馬は少しほっとしていました。足音がしました。牧場のひとではありません。本格的なカメラを構えた、おひげのカメラマンでした。子馬は思いました、きっと、白馬のお母さんのことをとっているに違いない、だって、ぼくみたいな茶色い馬をとったって、つまらないもの。子馬がそっぽを向くと、カメラマンは撮る手をとめました、
       「こっちを向いて! 子馬くん。もっと、撮らせてよ。うん、とっても良いよ。そんな感じ、そんな感じ」
       え? ぼくを撮りたい? もの問いたげに見た子馬に向かって、カメラマンが大きな黒いカメラのシャッターを切りました。しきりに良い感じだとほめながら。ふしぎだなあ、人間を乗せたわけでもないのに、どうしてこんなにほめてくれるんだろう。ぼく、何かいいことをしたのかな? なんにもしていないよね。そんな子馬に、カメラマンのひとは言いました。
       「ありがとう、お母さんと子馬のとても良い写真になった。子馬くん、とくに、きみの表情がすっごく良かったよ」
       からかわれているのかな、子馬はおもしろくありませんでした。
       「ねえ、ぼくのことをとったって、おもしろくないでしょ? お母さんは白馬なんだから、お母さんだけとればよかったのに。それとも、ぼくがみっともないから、笑い者にしたいっていうの?」
       カメラマンは子馬がじぶんを恥ずかしいと思っているのに気づいて、ああ、そうか、生まれてきたのが白馬じゃなかったことで、さんざん言われてきたんだな、と思い、なんと言うべきか言葉をさがしました、
       「ねえ、子馬くん、きみは、茶色い馬に生まれてきて、イヤだったって思っている、ひょっとして? でもね、きみの毛の色はきれいだよ。きみは、お母さんと違っているのがいいんだよ。茶色いから、あたりまえって思うの? そんなことないよ。みんな、それぞれの色を持っている、からだの色も、こころの色も。きみの心の色は知らない、でも、きみの毛の色は、大地の色をしていると思うな。草たちを育む、ゆたかな大地の色をしていると思うな」
       おひげのカメラマンを見送りながら、子馬はおもいました、もの知りなおじさんだったな。ぼくの毛の色のことをそんなふうに、いうひとなんていないや、芸術家って変わっているんだなあ。

    本が好きな子

       街の本屋さんでのこと。店のおじさんは、とても腹を立てていました。また、あの子がやってきた。いっつも、ろくに買いもしないで、店でねばっていきやがる。おじさんはたまりかねて注意することにしました。つかつかと近づいて睨んだのですが、その子は本に夢中でぜんぜん気がつかないようすでした。とっても夢中で読んでいるので、あきれると同時に、よほど本が好きなんだなと思い、それを見て、店主はやっぱり注意するのは止そうかと思いましたが、これでは、店の商売あがったりだと思い、心を鬼にすることにしました、店主は口をひらきました、
       「ちょっと。その本、買うのかい? 買わないのかい? もし、買わないんだったら、本に傷をつけないでくれないか」
       「傷なんて、つけていません。ていねいに、扱っています」
       少年はまるい目をして、店主を見ました。この子わかってんのかな、店主はもうちょっとわかりやすく言うんだったかな、と思って、こう諭すことにしました。
       「あのさ、いくら傷をつけていないって言っても、やっぱり、いけないものはいけないからさ。立ち読みっていうのは、泥棒と同じことだよ。本の中身を盗むんだからね。読むんだったら、ちゃんと買ってからにしてくれって、言いたいんだ。わかってくれた?」
       が、少年は少しも悪びれることも、怖気づくこともしませんでした、店主に向かって、こんなふうに言ったのでした、
       「でも、おじさん。立ち読みがいけないって言いますが、買うか、買わないか、読まなかったらわからないじゃないですか。面白かったら買うし、面白くなかったら買わない、そういうことです。おこづかいは無限にあるわけじゃないんです。鉄道模型を買うのをがまんして、なけなしのお金で買うんですから、やっぱり、ほんとうに気に入った本を買いたいんです。それに、泥棒って言うけれど、とってもお腹をすかせたひとが、パンを盗んだら、やっぱり同じように咎めるんですか? ぼくは、とっても本が読みたいんです。でも、読みたい本をぜんぶ買うだけのおこづかいは、持っていないんです」
       ふむ。これを聞いて店主は、なかなか立派な申し開きだったと高く買ったので、どうしようかと思いました。ちょっとだったら、立ち読みを許してやるかな。でも、その子に許して、ほかのお客さんに立ち読みを許しませんと言ったなら、ちょっとおかしなことになってしまいますので、考えました。
       「あのさ、お金を持っていないんだったら、アルバイトでもしたらどうなの? うちは人が足りているけど、雇ってくれる本屋だってあるかもしれないよ」
       「紹介してくれます?」
       そこで思いついたのが、知り合いで古書店を開いているひとが最近、ひとり辞めたという話でした。
       「なあ、本がそんなに読みたいんだったら、古本屋でアルバイトをしてみないかね。わたしの知り合いが、古本のお店を持っているんだけど、そこで働いたら、仕分けの済んでいない本をちょっとだけ読めるよ。踏切のすぐそばの大通りに面したところ、わかるかな」
       ええっ、ほんとう? ということで、少年は古本屋で店番をすることになりました。お客さんを待っているあいだ好きな本が読めるので、とっても楽しかったのです。そのときやってきたお客さんはすごい美人でした。でも、それも目に入らないぐらい本に熱中していました。その哲学の入門書はとても面白かったので、ちょっと高いけど、買えないかと、思い切って、店のおやじさんに頼んでみようと思いました。鉄道模型はとうぶん、我慢することになりそうです。

    発表会のドレス

       駅で伯母さんが待っていました。お母さんと結衣は、改札のところで、いつものようにお洒落をした伯母さんを見つけました。合流すると三人で百貨店へと向かいました。坂をあがって、伯母さんのお気に入りのお店へと。伯母さんがおしえてくれた、その坂のうえの百貨店の三階にはドレスがたくさん並んでいました。もうすぐピアノの発表会なので、舞台で着るドレスを選びに来たのでした。が、先生として働いていたお母さんは、いそがしくて、お店をさがす時間がなかったのです。百貨店のひろい入り口をくぐると、エスカレーターで三階まで上がりました、そこにはどれも品の良いドレスが棚に沢山ならんでいました。夢中でドレスをえらぶ結衣のことを、伯母さんとお母さんは見守っていました。結衣は、迷ってなかなか決められないようでした。しびれを切らしたお母さんが、モスグリーン一色のドレスを持ってきて結衣にわたしました、
       「結衣、これをちょっと、あててみて」
       言われるままに、鏡のまえで、顔に洋服をあててみましたが、何となく、ぴんと来ませんでした。でも、お母さんは満足げだったので、口をはさみませんでした。すると、
       「あら。似合うじゃない。これにしたら? あら。どうしたの、気に入らないの」
       と言って、いまにもレジに服を持っていきそうでした。気に入らないわけじゃないんだけど。決断のおそい結衣は、服を買うとき、こんなふうにお母さんから決められてしまうことがよくありました。でも、せっかくの発表会だもの、じぶんで選んだドレスが着たいな。結衣はお母さんに、もうちょっと見ていいかなといって、棚にならんでいたドレスをひとつひとつ、手に取りながら見ていきました。目を引いたのは、紫がかった野バラの模様のドレス。こんなの、わたしに似合わないかしら。お母さんが選んでくれたドレスのほうが似合うのかな。伯母さんが、脇に立って話しかけました、
       「それ、いいじゃない。結衣ちゃん、ピアノが好きだから、発表会が楽しみね。舞台でなんの曲を弾くか、もう決まっているんでしょう?」
       結衣は、伯母さんに言いました、
       「うん。エリーゼのために。とっても、とってもお気に入りの曲なの。だから、ドレスも妥協したくないの。なんだか素敵なドレスばかりで、迷っちゃう。ねえ、伯母さん、これ、ちょっと派手かな?」
       じぶんで決めなさい。結衣には判断がつきかねましたが、伯母さんも、見て、いいんじゃない、と言ってくれたし、と思い、かすかに芽生えはじめた自信とともに、別のドレスを探していたお母さんを店のなかで見つけて、それを示しました、
       「ねえ、お母さん。わたし、この野バラのドレスがいいと思うな。ちょっと派手かなあ」
       そうねえ。お母さんはあまり良い顔をしませんでした。こっちのほうが似合うんじゃない? と、さきほどのモスグリーンの服を出してきて、試着室にいくよう言いました、結衣はとってもがっかりしました。いつも、選んでいるとあさっての方角からべつの服をもってきてこれにしなさいと決められてしまう。結衣は面白くない思いを抱えつつ、野ばらのドレスを棚にもどしました。そして、モスグリーンの服を持って試着室に行こうとしました。そのとき、伯母さんが、野ばらのドレスをもう一度とりだしました、
       「ちょっと待って。こっちのドレスを選んだんじゃないの? エリーゼのためにを弾くんなら、それがぴったりだと思うわ。ねえ、あなたも、これを買ってあげなさいよ。けっきょく、じぶんでいいと感じて選んだものが、いちばん良いの」
       お母さんはそう言われて、伯母さんの言うことにも一理あるとおもい、野ばらのドレスをレジにもっていくと、モスグリーンのドレスをハンガーにかけて棚にもどしました。伯母さんがいてくれて良かった、結衣は思いました。結衣ひとりだったら、お母さんにまた決められていたでしょう。帰りの電車のなかで、もっとちゃんとお礼を言うのだったと思いました。伯母さんを発表会に招待したいな、結衣はお母さんに言いました。それがいいわ! と、お母さんも賛成、母と娘は夕暮れの電車のなか、ぴったりと意見がかさなってほほえみを交わしあいました。
幻想庭園Since2026.6.23