音関連の物語
無類の音楽好きによる五つの短編です。一部、実在のアーティストに着想を得たものもありますが、物語に書かれているのと同じことが起こったというわけでなく、かなりつくってあります。心情を想像しながら書きましたので、きらびやかな世界に見えてもこんなこともあるのかも、などとお読みくだされば幸いです。
アイヴォリー
パトロンの休日
序章再び
シンセサイザー
アイヴォリー
お前なんか、一族の恥さらしだと言われ。発端は、クリスマス、おれが会食の席でピアノを弾く係だった。一曲目、二曲目、弾いたところで、もう一曲、と言われ、そのほかに、譜面を見ずに完璧に弾ける曲がなかったので、自作のレゲエ調の曲を弾いた。子どもが言った、何だか黒人の音楽みたいだね、と。そこで、一同がはっとして、口々におれを糾弾しはじめた。ちょっと、どうかしているわ。何てこと、バッキンガム家の一員ともあろう者が。そんなに黒人になりたいなら、黒人になって、スラムに住めばいいのよ。つめたい視線がおれにまとわりつき、たまらなくなって家を出た。腹が減っていた。わけもなく、女が抱きたい、そんな気分になった。アムール通りへと足は向かっていた。外は暗くなりかかっていた。女たちはスツールに腰かけて、薄物をまとって名札をつけていた。ロニという子に目が止まった。ほかの女たちはエリーゼとかアンナとかだったのに、彼女だけ、「黒い」名前だった。
彼女を抱きたくなった。が、同時に、なぜか抱きたくないような気がした。おれなんかが抱いてはいけないような、彼女を穢してしまいそうな、そんな気がした。何か食べたかった。どこかで眠りたかった。明かりに誘われるように、おれはその家に入った。お腹がすいているんだ、ひどく。そう言うと、出前でクスクスをとってくれた。がつがつと、その滋養のつきそうな食べ物をむさぼった。よっぽどお腹がすいていたんだね、という。おれは名乗った、
「アイヴィーっていうんだ。蔦のように、一族の厄介者だから」
ふうん、ロニは、電気、暗くする? と、食べ終わった皿を部屋の外にかたづけながら言った。おれは、
「あのさ。抱きたいわけじゃないんだ。いや、きみは、とても魅力的だし、抱きたくないわけじゃないんだ、でも、おれ、行くところがないんだ。一晩、泊めてくれないかな、ここに。あの、電話番号、おしえてくれない? おれ、あんたと付き合いたいんだ。いきなりエッチなんて嫌なんだ」
するとロニは笑って、
「ダメ! あたしに電話番号おしえたら、営業の電話、かかりまくりだよ! そんなこともわからないの」
と。彼女がしろい歯を見せて笑ったところは、まるで、雲の合い間から陽が差してきたかのようだった。初めて息をつけた。じぶんの家はまるで家ではないようで、この狭い部屋が、かろうじて、家の代わりのようで。ふしぎな感覚。もう子どもじゃないのにどこかに家を探してる。そんな気持ちでいると、ロニはあたたかに言った、
「アイヴィーって言ったっけ。あんた、何かワケアリのようだね。行くとこないんなら、泊まっていってもいいけどさ、ちゃんと明日には家に帰るんだよ」
「帰りたくない」
「ダメ。帰らないと。家のあるひとが、どれだけ、恵まれているかわからない? 屋根があって壁があるのが、どんなに有難いことかわからない? ふかふかのベッドがあって、朝食のパンがあってさ。ねえ、あたし、道で暮らしていたことある、気の合った男と抱き合って、地下道で雨風をしのいでさ。どんなにいいかわからないよ、帰る家があるんなら」
おれは、彼女の人生を理解したとは言えなかった。けれど、同時に彼女もおれの人生を理解していないのではないか、という反感がこみあげてきた、たまらずにぶちまけた、
「気の合う男と、抱き合えるだけマシだろ! おれには気の合う女なんて一人もいないんだからな! 家なんて、まるで墓場さ」
彼女が怒るだろうと思った。けれどその代わり、抑えて、その弾力のある手でこの肩を抱いてくれた。その温かみをたぶん忘れないだろう。おれの言葉にはまったく言い分がなかったというのに、彼女はわざと負けてくれた、
「ごめん、あんたのこと、わからなくてさ。でもね、ひとは、互いに違っているから、わからなくて当たり前なんだ。だから、わかりあおうとする。違うかい? 話してみてよ」
いつしか素直になっていくじぶんに気づいた、こう語っていた、
「一族は、ビジネスの才能のないおれを厄介者扱いで、せいぜい好きな音楽をさせておくかと、ピアノを習わせた。でも、楽譜をなぞるだけじゃ満足できなくてさ。できれば、じぶんの曲を弾きたいんだ。いつもこっそり聴いているレゲエを貴重にした曲を。どんな黒人にも負けない、黒い、音楽をつくりたいんだ。あんたは綺麗だ。黒くて綺麗だ。あんたのような、なめらかな肌触りの極上の音楽をつくりたいとおもってるんだ。白鍵には、どうしたって黒鍵がひつようなんだ。そうおもわないか?」
どうだろうね。破顔一笑。彼女は、また笑った。こんどは、輝くように、でも、ちょっとだけ照れくさそうにでもはっきりと。その笑顔をながめているうちに内側にほとばしるものを感じた。
「なあ、あんたのこと、歌っていいかい? ここで出会えたことを。とびきりのラブソングを書きたい」
彼女は、おれの上着をハンガーから放ってよこした。
「ふうん。あんたの道、見つかったじゃん。さあ、もう、帰んな。あんた、いい家のひとなんだろ、こんなとこにいるってバレたらたいへん。いい子だから。そうだ、お土産をあげるからさ。あたしの客に、レコード会社の社長がいるから、電話番号をわたすよ」
重い扉をくぐり家に戻った、迎えた両親は冷ややかだったが、もう、それほどは気にならなかった。帰って、ピアノに向かい、彼女のことをうたった曲をつくった。そうして楽譜が仕上がり携帯音楽プレイヤーでの録音が済むと、社長の名刺をとりだして電話することにした。溌溂とした声の社長がいう、
「アイヴィー? バッキンガム家のご子息か! ちょっと聴かせてくれ。うん、なかなか良いじゃないか。明日、会社に来てくれるか。デビューするにあたって、名前がひつようだな。そうだ、アイヴォリーと名乗れ。あんたの肌の色だ、肌の色を日焼けサロンに行って変えることよりも、生き方をじぶんで選択するほうがよっぽど大事さ!」
パトロンの休日
梅ばあは、ひとりのアーティストをそれは大切に育てていた。緑川というそのアーティストは、尻を叩かなくてもちゃんと努力することのできる有望な若者だった。その情に厚く公平なものの見方をする人間性のすべてを愛し、彼のつくる音楽が梅ばあの世界そのもので、梅ばあは彼のつくるすべてを愛していた。最近になって、緑川に好きなひとがいると告げられ、結婚の許可を出した。それは、かなりの苦痛を伴うことであったが、幸せを望む気持ちがあった。二人のあいだに赤ちゃんができ、祝福したが、時に梅ばあは赤子の肉が食いたいという鬼子母神の気持ちを感じた、赤子の肉の代わりに音楽に耳を傾けているとかなり気が紛れた。
かしづかれる生活のなか、梅ばあには、じぶんの属する階級の者で好む者をひとりも見つけることができなかった。自然と、下働きの者たちと仲良くなり、それらの人々と会話しているとすごく楽しかったがやはり、そこに属することはできず、常にどこか乞食のように孤独を抱えていた。だから、緑川の結婚はとても堪えることだったのだ。
おのれの飽くなき執着にやや疲れた梅ばあは、バカンスを取ろうと思い立った。南の島へと向かう飛行機の、ファーストクラスのゆったりした座席にこしかけた。もちろん、緑川に旅の相手をさせたいとは思ったのだけれど、新婚旅行をさせてやらなくてはと思い、緑川には信頼のできる旅行社を紹介しておいて、じぶんは独り旅に出た。晴れやかな空、機内の窓の外にしろい雲海を眺める、飲み物を差し出すフライト・アテンダントの長い手の指に、鍵盤に指を走らせる緑川のいささかごつごつしたけれど形の良い洗練された手を思い浮かべ、少したまらなくなり、また雲海に目をやる、どこまでも広がるそれは梅ばあの心をずいぶんマシにしていた。飛行機は定時より早く到着した、自動扉のゲートを出るとタクシーの運転手が出迎えてくれた。いささか荒っぽかったが悪い青年ではなかった。道中、お気に入りのアーティストに結婚をさせてやってじぶんは独りだ、という話をすると、ひとりだっていいじゃないですか、と言い、家族というものへのどうしようもない憧れをこの者は知らないのかもしれないと思った。宿に行くまえに水族館に寄った。家族連ればかりだった。巨大水槽の前で、田舎者丸出しの母親が子どもを抱き止めていた。その光景がホテルにチェックインした後でもちらついていた。が、スイートルームに聞こえる波の音がいくらか気分をやわらげてくれた。
フランス料理に舌鼓を打ち、かなり気持ちの整理がついてきたところで梅ばあは、朝一番で水族館に行ってはどうだろうと思い、レセプションに繋いでタクシーを予約する。翌朝、女性の運転手さんが迎えに来てくれた。宿とすぐそこの水族館へと向かう。ほんとうに選択は正しかった、ウミガメの挨拶に、緑川と同じく生き物が大好きな彼女はとたんに気を良くした。そばに寄ってきて息継ぎをするその様子は、まるで挨拶しているかのようで動物好きの緑川と来られたらどんなに良かっただろうと思う。家族づれで賑わいはじめる前に水族館を後にすることにした。
待たせておいたタクシーに乗りこんでホテルに戻り、庭と、それからその向こうにプライベート・ビーチとを眺めながら、コーヒー・ラウンジで過ごした。陽射しにつつまれたひとり時間は、至福だ。とても優雅な満ち足りたひとときで、勢力争いのつづくビジネスのこと、家族らしい家族のいないさびしさを忘れさせた。なんて素敵なんだろう。眩しい海岸線。ビーチに出ることができるかもしれない。聞いてみると、ウェイトレスが、出られますよ、といって、扉を示して行き方をおしえてくれた。扉をくぐり照りつける日差しのした、階段を下って庭を通り抜けると、道は敷地内から海岸のほうへと通じていた。その道を辿ると、庭に、ヤシの木とハイビスカスの彩りと備えてある小さなプールが目に入った、午後も近くなって海はいよいよ輝き波のくだける心地良い音は緑川の曲に勝るとも劣らなかった。ああ、こんな独り時間が好きだ。やわらかな砂を踏みしめ、波がくだける音に身をまかせる。そうしていると、じぶんが何ひとつ変わっていなくて子どものままであるのを感じる。砂浜に流木が流れ着いていた。じぶんが死んだらせめて緑川という海辺に流れ着くことができるだろうか。そうか。タクシーの運転手の言うことは正しかったのかもしれない。独りだって良いのかもしれない。じぶんが価値を信じられる何かがあれば。どこにも帰属できなくても、たとえ隣りにパートナーがいなくても、何かを差し出して、何か見合ったものを受け取ることができればそれで良いのかもしれない。それは、とても良い感覚で、首都圏に戻っても、豆からコーヒーを淹れたり窓辺に花を活けたり、じぶんがほんとうのじぶんに戻れるような時間を大事にしていこうと思えたのだった。
序章再び
おれは楽譜が仕上がると、その足で、社長のところに赴いた。モダンなビルの最上階で、社長に楽譜を見せ、ギターで、さわりの部分を弾いてみせる。社長はなかなか口を開こうとしない。何か問題がありますかと尋ねる、すると社長は、
「いいよ、きみ。とてもいいよ。だが、ほかのメンバーと、代わりのヴォーカルを探さなければならないね。ロバートに見劣りしないヴォーカルが、いるかどうだか」
「ニコルにも、ワイズマンにも、すでに連絡済みで了承を得ています。ロバートとは連絡がつかないですが、これからでも、家に押しかけてみようとおもっています。ロバートの説得はどうか、おれに任せてくださいませんか。フィービーのことで、落ちこんでいるのはわかっているんですから」
「頼んだよ、ザック」
黒のステーションワゴンにギターを押しこむと、キーをひねって発進させビル地下の駐車場を後にした。
おれは、ロバートにかけるべき言葉を、ずっと探していた。信号を待つあいだ、いったい、愛する者を失った彼になんと言えばいいのか、考えたがわからずに、赤のシグナルはまもなくグリーンへと変わった。豪邸にたった独りでいるロバートのもとを、訪れるのは久しぶりだった。おれも、フィービーのことではショックを受けていたから、じぶんの苦しみと向き合うのに精一杯だった。曲を書くことで、かろうじてそれを乗り越えたが、ロバートは。
古い城を改造した屋敷で、不用心だというのだが引っ越したがらない。両開きの扉のまえにクルマをつけ、無駄は承知で呼び鈴を鳴らす。フィービーの遺品の合鍵があるから、どうしても応えがなければそれを使おう。鍵は開いていた。つよい日差しから涼しい空間へ。空調が効いている、ということは、少なくとも生きてはいるわけだ。
「ロバート」
居間のソファに向かってロバートは、そこに誰かが横たわっているかのようにひざまづいていた。半裸だった。入ってくるおれには気づかないようだった。ロバート、呼んだが、こちらを見ようとしなかった。おそらく、また睡眠薬をオーバードーズしているのだろう。その美声で泣き声をあげるロバートを見るのは辛かった。ロバートは、半ば正気を失っているようだった、
「なあ、目を、覚まさないんだ。フィービーが、目を、覚まさないんだ。なあ、フィービー、しっかりしてくれ。おれが悪かった、おまえがこんなに苦しんでいたなんて知らなかったんだ。頼むから、目を覚ましてくれ」
あたかも、ソファにフィービーが意識を失って横たわってでもいるかのように、話しかけつづける。が、やっとおれに気づいて、
「ザック。フィービーが、目を覚まさないんだ。あれほど、睡眠薬を飲むなと言ってあったのに。死んじまった、フィービーが。おれを置いて、逝っちまった。頼む、ザック、おれも殺してくれ。なあ、薬はどこだ、これから、三十錠ぐらい飲むから、おれが寝ているあいだ起こさないでくれないか、なあ、ザック。殺してくれ、殺して」
ぶん殴りたい気持ちで、つとめてやさしく、睡眠薬のせいで眠りに落ちてゆくロバートと、午後のひかりとたわむれるカーテンを、ギターをゆるくつま弾いてやりながら眺めていた。やっと眠ったようだ。不意に腹が減ってきて、やつのぶんも何かつくってやろうと冷蔵庫を開けたが、ひからびかけたニンニクと、ホールトマトと、スパゲッティぐらいしか見あたらなかった。なので、パスタにかけるトマトソースをつくり麺を茹でた。フィービーが残していったらしくて、バジルの小瓶はちゃんとシンクの横の棚にあった。それから、やつのぶっ倒れた床のうえでギターを弾いていると、やっと昼の明かりがぜんぶ消えた頃、やつが、まだ寝ぼけ眼で起きあがった。
「それは新曲か」
やっと気づいたな。おれはいった、
「そうだ、いい曲だろう? もういちどやろうぜ。ニコルにも、ワイズマンにも連絡をとってある。社長に、おまえの説得を任されてきたんだ。社長がいっていたぜ、バンドを復活させたいとは思うが、代わりの見劣りのしないヴォーカルを探すのがたいへんだってな。なに、何のことはない、おまえがうたえばいいんだ」
彼女を失って、もう、うたえない。それには構わず、おれは、
「腹、へっただろ。トマトソースのスパゲッティだ。いま、麺をゆでてやる。それを食べながら、ちょっと話そうぜ。おまえも、ろくなもの食ってないだろ、どうせ?」
熱湯に麺を入れ、フィービーの買った、小鳥の形のキッチンタイマーをかける。ゆであがり、ザルにひきあげ、木の器に盛る。フォークとスプーンは、ロバートが出してくれた。おそらく彼女といるときも、それはロバートの役目だったのだろう。一口食べて、ロバートは、まずい、とひとこと。おれも一口食べて、ほんとうだと思う。
ロバートが初めて笑みをみせた、
「塩が、効いていない。フィービーが言っていた、トマト味のときは、塩を多めにしないといけないって。彼女のつくるのは、そりゃあ旨かった。あ、ごめんな、ザック。おまえの料理をけなしたわけじゃあないんだ」
無邪気な笑みだった。おれを、つかのまほっとさせた。
「遅くなってすまない、おまえのもとに駈けつけるのがこんなに遅くなってしまって。だが、おれだってフィービーが大好きだったんだ。おれなりにショックだったんだよ。フィービーのことは残念だった」
なにがわかる! とりあえず、食べてから話そう。おれたちは皿を空にした。それから、インスタントのコーヒーを淹れた。不味いだろうが。その不味さといっしょに吐き出すように、ロバートが言った、
「あいつが内側で血を流しているのが見えなかった。おれのせいだ。彼女が体に傷を負っていなかったからといって、心はそうじゃなかったんだ、おれは気づいてやれなかった、誰よりも、彼女を救けなければいけなかったのに、おれは。あいつがレイプにされていたことすら、知らなかった。ほかの男とヤッたって言って責めたんだ」
フィービーは、おれたちがからかい半分に、別のやつのヴォーカルをロバートの声だと言って聞かせるといつも、違うでしょ、と言い当てたものだった。そろそろ真相を話してやるときだろうな。
「フィービーのことを今から話してやる。よく聞け。遺品のなかに彼女の日記があった、事件のことが書いてあった。人気のない駐車場で」
「やめてくれ!」
ロバートが立ち上がった。しかし、おれがその目をきつく見据えると、真相を聞きたい気持ちがやはりあるのだろう、席について話を促した、
「なあ、頼むから、最後まで聞いてくれ。フィービーの日記にあった、クルマに乗りこもうとするとき、刃物をつきつけられた。ロバートの女だろ? あいつの女をめちゃくちゃにしてやるのは、楽しいだろうな。フィービーは気丈にいった、あのひとに何か恨みでもあるの? いいから、おれと楽しもうぜ、いまからおまえを犯して殺してやる。すぐに、ロバートも同じところに送ってやるから安心するんだな。ムカつくんだよ、あいつが。それでフィービーは言った、言う通りにするわ、だから、その刃物をしまって。駐車場の暗がりで、フィービーは男に抱かれた。おまえは、さぞかし、フィービーが抵抗しなかったので同意のうえだったんじゃないかと疑っただろう。フィービーは書き残していたよ、この男はロバートに恨みを抱いている、逃げることもできるけれど、それでは永遠にこの男につきまとわれるだろう、だから、いったんじぶんがレイプされて警察沙汰になれば、男はつかまって、ロバートは安全になれるだろう、だから、と。そうして冷たい地面に背中を押しつけたのだと。計算違いだったのは、警察が和姦と決めつけたことだった。おまえは知らなかっただろう、山のような嫌がらせが届いていたことを? 嫌だったんだ、おまえがうたえなくなるのがこわくて、黙っていた。でも、事実だ。フィービーは知っていた」
フィービーがメンバーのみんなに手料理をふるまってくれたときのことを思い出した。いつでも笑みを絶やさなかった柔和な彼女のこと。そのときのものすごく美味しかった、夏野菜のトマト煮込みをかけたクスクスのこと。彼女を失って、バンドは分裂状態になった。けれど、もういちど。
「ロバート。おれは、おまえの立場に立って、曲を書いてみた。歌詞が気に入らなかったら書き換えてくれ。メロディも歌いやすいように手直ししてくれて構わない。だから、どうか、おれと、おまえと、みんなの思いを乗せてうたってくれ。そうする限り、フィービーはそのなかで生きつづけるのだから」
なにがわかる! こぶしでテーブルを叩くロバート。が、やがて楽譜に目を通すと、ありがとう、そうしずかに言って、自宅に置いてあるコピー機を動かしはじめた。おれはいった、そんな体じゃ、二時間のステージは保ちそうにないな。体づくりから始めるんだな。もういちどやろうぜ、それがニコルからの伝言だ。気を落とすのはわかるけれど、ここで負けちまっていいのか、それが、ワイズマンからの伝言だ。社長からの伝言はな、もうワンラウンド戦ってみせてはくれないだろうか、ということだ。何をいじけているんだ、おまえは、こんなにも可能性を信じられているじゃないか。
シンセサイザー
姉の支配から、逃れたかった。音楽一家に生まれ、当たり前のようにピアノをおそわり、わたしは、作曲の喜びを覚え、演奏の喜びを覚え、だけど、姉が、ステージのいちばん前でうたう姉が、わたしのつくった曲をうたったとき、それがじぶんの曲であると観客に向かって言ったとき、姉の支配から逃れたい、逃れて独立したい、そう思った。じぶんの曲と偽る姉が許せない気持ちもあった、どこかに理解者が欲しかったのかもしれない。姉がうたった曲はプロデューサーの目に留まり、わたしがつくった曲だと打ち明けると、彼だけは、わたしの言い分を信じてくれて、独立を全面的に支援する、と約束してくれた。プロデューサーのロイは、家族のもとを離れるように言い、わたしはマンションの一室を与えられ、ピアノの代わりにシンセサイザーで音を打ち込み、作曲をつづけた。アルバムは世界的にヒットした、けれど、わたしの心はいつも荒んでいた。あたたかい家族の一隅が欲しくて叫び声をあげることもあった。
シンセサイザーはどんな音でも鳴らせる、わたしの独立のすべ、あるときはバックコーラスにもなり、あるときはオーケストラにもなり、またあるときはバグパイプを模して奏でてくれる。ようは、それさえあれば曲が完成する、だけど、わたしのなかの何かはけっして完成しようとはしなかった。外の空気が吸いたくて、わたしは玄関から出た。そうだ、レモネードが飲みたいから新鮮なレモンを買いにいこう。八百屋さんへと足を向ける、街角は秋支度、歩道で子どもとすれちがう、子どもか。わたしの子どもが欲しいと言ってくれるひともいる、ロイとのあいだに子どもをもうけることも考えた、だけど、幸せな家庭に背を向けたそのとき、音楽を優先すると決めていた。わたしには音楽しかなかった。ルーツであるケルトの音楽が恋しかった、けれどわたしは、エスニックなどの音楽シーンからも締め出されていた。パブでうたうことすら許されなかった。必然的にわたしは世界に眼を向けはじめ、世界のひとの聴く曲をつくろうと試みた。拭えない違和感とともに。途中、川の向こうに大きな古い教会のシルエットが。わたしたち、ケルト人の拠り所。だけど、こんなときはそこからも見放されたような気がする、わたしの拠り所は何処なのだろう。
帰って、はちみつを加えレモネードをつくった。小さい頃、よく母がつくってくれたっけ。今では、ほとんど同じ味が出せる、わたしはもう子どもじゃない。けれど、じぶんで淹れた味に満足を覚えながら、どこかに違和感を感じてわたしはこぶしでテーブルを叩く。母に電話してみようと思った。声が聞きたかった。誰かに親身になって欲しかったのかも。リタイアした父が出た、元気か、という。姉がバンドのリーダーになったのは年長だからというのもあったが、父がそう決めたというのもあった。歌声で姉に負けたわけじゃない。やや不機嫌にわたしは、元気よ、母さんはいる? といって母に代わってもらった。ひさしぶりに母と話せるのを喜んだのもつかのま、母の曇った声にさえぎられる。こう言った、さいきん、えらく売れているみたいじゃない? と。昔は、皮肉を言うようなひとじゃなかったのに。それに、ほかのひとはたとえ冷たくても、母ぐらいはわたしの成功を喜んでくれるものだと思っていたのでとても心外だった、しばらく黙っていた。帰りたい、とつぶやいた。何処へなのかはわからなかった。家へ、ではなかったのかもしれない。何処か、何処でもないところなのかもしれない。何処か、わたしが帰属できるところ。それは何処なのだろう。もしかしたら、あのケルトの楽器の音だったのかもしれないし、あたたかに火が燃える、レンガでつくられた実家の暖炉のかたすみだったのかもしれない。母はわたしの気持ちを汲み取っているのかいないのか、帰ってくればいいじゃない、父さんもどんなに喜ぶか知れないわ、と安易にいう。わたしは母に向かって思いのたけを打ち明けたかった。さびしい、さびしい、と。すがるようにやっと言った、お母さん、わたしのこの気持ちをわかってくれないの? が、母は言う、ちゃんとお姉さんに謝るんだよ、そうしたら、きっと許してくれる。その瞬間、わたしは凍りついた。
謝る? なにを? わたしの曲をじぶんのものだと言ったのは姉だというのに。母さんは、なのにわたしに姉に謝れというの? でも、わたしは思い出した。姉がじぶんの曲だと言ったとき、部屋でわたしが発表する前に口ずさんでいたのを聞いていたはずなのに、母は何もそれに対してわたしに口添えしてくれなかったことを。母さん、涙がこぼれてきた。そうか、母は和を重んじるひとだから、わたしと姉がうまくやれたらいいと思うのだろう。でも。帰っておいで、と母は言う。いいえ、それはできない。わたしは言った。そして電話を切った。ピアノが弾きたかった。実家にある、やや鍵盤の重い重厚な音のピアノが。誰か、わたしに本物の音をちょうだい!
ロイから電話がかかってきた。とても忙しいひとのはずのなのに、どうしたのだろうと訝しんでいるとロイが言った、お父さんから連絡を受けてね。きみに説得を頼まれたんだよ、という。帰る気はないのかい? そうか。わたしとしてもきみの胸中は察しているつもりだ、きみの、独立したい気持ちは良くわかっている。心配するな。お父さんにもお母さんにも、きみの曲の著作権のことは粘りづよくわたしから説明をつづけるからね。きっと、お父さんもお母さんもわかってくれるよ。ごめん、大したことをしてやれなくて。きみに、音作りのための満足な環境を与えてやれないのは、負い目に思っている。でも、わたしを見放さないでおくれ。きみへの支持をつづけるわたしを見放さないでおくれ。ロイが、姉たちの恨みを買ってまでわたしを応援してくれていることには感謝していたから、わたしは素直になる、ほんとはね、お母さんのつくってくれるレモネードが飲みたかった。ほかのひとが冷たくても、お母さんぐらいはわたしの独立を支持してくれると思っていた。でもいい、わたしには、あなたがいるから。わたしに温かな手をさしのべてくれる、あなたがいるから。

